新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(9)

景気が良い時に生産者は次々カミニョンを購入した(1982年頃)

 13組合員の特別出資金の醵出で救われた下元健吉であったが、以後も采配の乱れは続いた。
 1932年、会計理事が自分の農場で使う資材を、勝手に先払いで組合の購買部から購入、それが常識外の額になっていた――という事実が露見した。これは監事会が処理したが、専務の監督責任でもあった。
 1933年、下元は元専務二人を、組合から除名するという騒ぎを惹き起した。二人は、その役を退いてから営農資材商を営み、肥料やじゃがいもの種芋を組合員に販売していた。そのために下元は「これは組合の購買部と競合する。組合員として、あるまじき行為」と総会の席上、除名を主張した。
 対して二人の元専務は、「自分たちは別の理由で、すでに組合員ではなくなっている」と主張した。
 この一件も相当の混乱を招いた。監事会は二人に謝罪をさせ、組合には留まる――という便法で事を収めようとした。が、二人は下元に反感を抱いており拒否した。除名は承認された。
 ところが間もなく、とんでもない事実が表沙汰になった。下元が一友人と共同で農産物商を設立、登記していたのだ。農産物商は組合と競合する。下元が糾弾した元専務二人の行為と同じである。
 この一件を審議するため総会が開催された。監事会は、ここでも下元に謝罪させ事を収めようとした。すると下元はアッサリ謝罪してしまった。辞表を提出、組合には留めて欲しい、と頼んだ。その直後、例の村上誠基が発言を求め、「組合員諸君、下元は自己の非を悔いた。善意を認めて彼を許した以上は、百尺竿頭、一歩を進めて、元の職責も彼にやらせて貰えないだろうか」と提案、承認をとってしまった。
 翌1934年、下元はビーラ・コチアの蔬菜生産者の希望で、独断で組合に蔬菜部を作ろうとした。これに組合員から猛烈な反対の声が起こった。資金負担が自分たちにかかってくると警戒したのだ。
 無論、下元の独断専行に対する反発もあった。結局、蔬菜に関しては、別に非登録の組合をつくって扱うことになった。
 采配の乱れというわけではないが、当時の下元は短気で血気が溢れすぎていた。従業員や組合員と殴り合いの喧嘩をしたこともあった。
 こんなこともあった。車で走行中、前方で路面電車が故障、道は車で一杯になり進むも退くも出来なくなった。下元は5、6分我慢していたが、癇癪を起し「デズグラサード、ボンデの奴、道を開けんか!」と怒鳴った。すると近くに居った車の一ブラジル人から「ボンデは居るべき線路の上に居るぞ」と怒鳴り返された。以上の如くで、この頃までの下元健吉は未熟で、とても傑物とは言えない。

時勢に救われる

 しかし、こんな調子で、よく組合が持ったものである。が、実は一方で、時勢が追い風となって、コチアを支えていたのである。
 まず第一次世界大戦の特需で、サンパウロの工業化が進み、戦後も人口が増え続けていた。概数で1920年の60万が、1925年には70万、その8年後には100万を突破…という膨れ上がり方だった。自然、胃袋の数もそうなり、食品に対する需要が増加し続けていた。
 一方、奥地のカフェー不況で、近郊へ移動して営農、組合を頼る邦人農業者が後を断たなかった。これも大雑把な数字だが、1932年、近郊の邦人農家はひと口に三千戸といわれた。
 さらに1932年、独立した産業組合法が発令され、州政府は農務局内に産組奨励局を設けた。
 この時、コチア産組は事業地域を広め、さらに
じゃがいもだけでなく蔬菜、鶏卵その他も扱える様に定款を改めた。前記の非登録の蔬菜組合は吸収した。
 つまり下元健吉は時勢に救われていたのである。無論、ほかに経営の采配を振る人間がいないという裏事情もあった。
(つづく)