新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(13)

1940年当時の役員会(『コチア産業組合中央会60年の歩み』より)

巨大化を目指す

 下元が増資積立金制度を作ったのは、施設拡充のためであったが、実は、別の目的もあった。コチアを巨大化させようとしていたのである。
 ここで、話を進める都合上、これまでの流れを振り返ってみる。
 この国の農業界は、かつては中世の荘園色を残すファゼンダが殆どを占めていた。日本移民は(非日系もそうであったが)、そのファゼンダで搾取され、かつ奴隷に近い扱いを受けた。そこから抜け出した後は、必死でシチアンテ(小さな自営農業者)となった。
 中世の荘園色を残すファゼンダは、その後、諸般の事情で没落しつつあり、一方、シチアンテの多くは産業組合を組織、その事業規模を拡大させつつあった。
 個々のシチアンテは非力でも、組合として纏まれば、ファゼンダ以上の力を持つ。日系、非日系を問わず、次々と組合が設立された。
 農業界は大きく改革されつつあった。革命といえるほどの変化が始まっていた。コチア産組は、その代表存在だった。しかし下元から見れば、未だ規模が小さかった。
 ブラジルは資本主義社会であり、大資本家が強者であり、資本力のないものは弱者であり搾取されている。組合や組合員が必要とする営農資材や生活用品は、相手が大資本である場合が多く、こちらも巨大化しないと対抗できない――と考えていたのである。
 下元は、巨大化だけでなく、それ以上のことも考えていた。
 例えば、組合員の居住地で電化されていない処には、組合で電気をひく。電化だけでなく教育、保健衛生、娯楽、衣食住その他…生活向上に必要な総てについて、それをやるという構想だった。
 彼は当時、ある場所で「産業、経済、教育、衛生、その他百般の事業を産組が統轄、経営せよ!」と熱弁をふるっている。
 要するに組合員とその家族から成る一個の新社会を創ろうとしていたのである。
 壮大な野心であった。
 但し、これは彼の独創ではない。当時、日本で盛り上がっていた産業組合運動に倣ったものである。この運動については次回で触れる。
 ともかく、組合の巨大化と新社会建設の軍資金としても、増資積立金制度は必要であった。
 しかし、この頃、下元支持派は別として一般の組合員の中には、彼の積極的拡大策を好まぬ空気が広まっていた。高知県人以外の組合員が増えていたことにもよろう。年輩の組合員の間に、その空気が強かった。
 彼らは家庭を持っているから、目前の生活に囚われる。組合の施設は、既存の組合員に必要なモノだけでよく、新しく入ってくる組合員の分まで、自分たちが資金を負担して作る意欲はなかった。
 しかも、下元の拡大策はいつ終わるか、見当がつかなかった。永遠に続きそうでもあった。
 それと、当時の日本移民には「1万円貯めて故郷へ帰る」という共通した目標があった。それは一日も早く達成したい悲願であった。増資積立金で組合はドンドン大きくなって行くであろうが、自分たち組合員は小農のまま…という惧れもあった。
 利益をザクリと組合に削り取られ、投資もできないからである。1万円は、いつになったら貯まるのか、不安になってもいた。(つづく)