新日系コミュニティ構築の鍵を歴史に探る=傑物・下元健吉=その志、気骨、創造心、度胸、闘志=ジャーナリスト 外山脩=(16)

フェラース(時期不明)

 全伯産青連の委員長になった下元健吉は、新社会建設に着手した。
 彼は燃えていた。一資料によれば「コチアの経営は人に任せ、自分が中央会に乗り込んで、本格的に取り組もう」とすら考えていたという。「乗り込んで」とは「中央会専務の職務に専従して」の意味である。そこまでのめり込んでいたのだ。
 この一資料を発見するまで筆者は、下元はコチアの経営の傍ら産青連運動、新社会建設をやろうとしていた――と思い込んでいた。が、実際はそうではなく、コチアよりも産青連運動、新社会の建設を上位に置いて考えていたのである。
 驚くほどの飛躍であった。
 ところが、ここに一大異変が起こった。半年後の1941年12月、日本が米英に開戦したのである。
 米英側に与したブラジル政府は翌1月末、対日国交断絶を宣言、枢軸国人を敵性国人と指定した。日系人30万人は敵中に孤立した。
 時を同じくして、その敵性国人に対する取締令が発せられた。令は自国語による刊行物の頒布、公けの場での自国語の使用等を禁ずるなど12項目から成っていた。
 その中に集会の禁止もあった。これは3人以上のそれを対象としていた。産青連運動など、到底、不可能であった。
 さらにブラジル政府は42年3月、敵性国資産凍結令を発した。法人・自然人とも資産は、連邦・州政府の管理下に置かれた。法人の場合、対象となる企業がリスト・アップされた。
 これは普通リスタ・ネグラ(ブラック・リスト)と呼ばれたが、日本から進出している商社や銀行、移民の組合、商店、工場も含まれていた。その資産は管理されるだけでなく所有権の移転も大幅に制限されることになった。後に、政府によって接収・解散に追い込まれる法人も出る。
 邦人社会にとって存亡に関わる危機であった。
 巷では警察の――スパイ容疑を名目とした――日本人狩りが始まっていた。邦人を包む空気は殺気を帯び始めた。

戦中突破(上)

 当時、邦人社会の指導者の殆どは、この超巨大な津波に抗する気力も術(すべ)もなく、諦め半分、弱弱しく呑み込まれて行った。
 ところが、ここで奇人が一人現れた。下元健吉である。コチア産組死守を決意、敢然と立ち上がったのだ。
 下元はリスタ・ネグラにコチアの名が載っていることを知ると、直ちに顧問弁護士フェラースを首都リオに派遣した。既述の1939年の植民地建設で知り合ったフェルナンド・コスタ農相に直訴、リスタからコチアの名前を除外する様、交渉させるためである。
 この時「資産凍結ということで、いちいち金の出し入れに干渉されたら、組合が機能しなくなり、サンパウロ市民への食糧供給が不可能となる。コチアは日本の資本ではなく、この国に居住する移民の出資、すなわち内資による産組である」とフェラースに主張させた。交渉は成功、コチアはリスタ・ネグラから外された。
 この処置は他の日系産組にも適用された。
 ただ、政府の圧迫策はこれだけではなかった。
 一定以上の規模の企業の場合、当局からインテルヴェントール(監査官)を派遣、さらに経営者は総てブラジル人にすることを決定したのである。
 これに対して下元はフェラースと相談、率先して「インテルヴェントールには誰々が適任…」と当局に推薦した。さらに「日本人役員は全員退任、後任にはブラジル人を据え、前任者はその補佐役に回る」こととし、「その後任の役員には誰々が適任…」と、やはり推薦した。
 政府側の先手を打ったのだ。無論、この時、裏で何らかの工作はしたであろう。
 これは成功した。インテルヴェントールや新役員に就任したのは、フェラースの友人や下元の息のかかった人物ばかりだった。つまり御しやすかった。なお、下元は理事長にはフェラースを据えた。
 この人事は他の日系産組も倣った。
 かくして、コチアだけでなく日系産組は、危機から脱した。
 当時、日系産組は29組合(中央会所属数)あり、組合員数は計9500人であった。その家族を含めれば、数万の人間が救われたのである。(つづく)