新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(21)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩

産青連の元になった1941年1月の全伯第2回農村中堅青年養成研修会。中央の白い背広が下元健吉(志村啓夫文書より)

産青連の元になった1941年1月の全伯第2回農村中堅青年養成研修会。中央の白い背広が下元健吉(志村啓夫文書より)

 常盤ホテルの集会のすぐ後、日本の外務大臣から国際赤十字社を経て、邦人社会向けの電報が送信されてきた。終戦の詔勅の写し(ただし英文)であった。

 これを敗戦派の有志が、広報することになった。彼らは、詔勅を日本語に翻訳、印刷し、各地から代表者を招き、伝達式を行った。10月のことである。会場はコチア産組の講堂だった。

 この後、敗戦派の指導者格だった宮越千葉太と同志たちが地方を回り、いわゆる時局(敗戦)認識運動を始めた。

 ところが、最初のバストスでは戦勝派の反発が強硬で、到底、その種の集りなど開ける空気ではなかった。次に行ったプレジデンテ・プルデンテでは集会は開かれ、宮越が講演を行った。が、閉会後、宿舎に引き上げた宮越は、押しかけた戦勝派から吊し上げをくった。その激しさに辟易、以後の予定は中止してしまった。

 しかし下元健吉は怯まなかった。地方を回って集会を開き、時局認識を説いた。それには戦勝派も出席しており、会場に殺気が流れた。産青連の――盟友の中の敗戦派が――幾人か、護衛のため身辺に付き添ったが(生きて、ここを出られぬのではないか)と懼れるほどであった。

 

状況誤認

 

 その会場の戦勝派の中に、産青連の盟友が多数居た。当時、地方の農村部の邦人は、100%近くが戦勝派であった。産青連の盟友の大部分は、その農村部で営農していた。

 彼らは、先の常盤ホテルでの下元の発言を耳にしていた。加えて、この集会で直接話を聞き、下元が敗戦派、しかも強硬な反戦勝派であることを知った。驚き、混乱した。

 しかし下元は自信を持っていた。自分が説けば、彼らは判ってくれると思い込んでいた。あの産青連運動で盛り上がった熱気、下元人気が自信の源であった。

 が、彼は、ここで、重大な状況誤認を犯していた。

 実は同時期、認識運動については一部に「そういうことをやっても無駄。こういう場合は、自然に認識が広まるのを待つしかない。強いてやると逆効果になる」という意見もあった。

 後世から観ると、これが正論であった。

 その頃の邦人は移住前、子供の頃から「日本は神国であり、戦えば必ず勝つ」と教えられ続け、それが信念・信仰の域にまで昇華していた。

 一般論であるが、信念とか信仰というものは、他人がそれを否定しても、当人は簡単に受け入れるものではない。却って反撥するだけである。

 が、この時、下元は多分焦っていたのであろう。新社会建設のために、産青連運動を再開しなければならず、そのためには認識運動を押し進め、戦勝派の盟友たちを覚醒させ、自分の側に引き戻す必要があったからである。

 しかし認識運動の開始以降、戦勝・敗戦両派の関係は急速に悪化していた。さらに別の要因も絡んで、実態は複雑化していた。単なる戦勝・敗戦問題ではなくなっていた。

 認識運動は逆効果を招いていたのである。下元は、そのことに気づいていなかった。

 なお、この頃、運動参加者たちには「認識派」、戦勝の信念の強固な人々には「信念派」という呼称が生まれた。本稿では、以下、これを使用する。(つづく)