【記者コラム】外国人になった日本人の気持ち、終わりのない長い旅

成田国際空港の「おかえりなさい」見てホッとする心情

成田空港の入国ゲート前のエスカレーターの上に、ホッとする「おかえりなさい」の文字

 海外在住日本人、移住者にとっての日常生活は、終わりのない長い旅のようだ。普通の人はふるさとに戻ることで、旅が終わる。それは祖国のどこかだ。
 ブラジルで生活を始めて25年以上経ったが、いまだにどこかを旅している感覚が抜けない。
 外国で生活せざるをおえなくなった人、それを選んでしまった人にとって、祖国に帰るのは一時帰国の時だけ。
 では、どうやって「長い旅」を終わらせるか。どこかの時点で腹を決めて「ここが第2のふるさとだ」と思いこむしかない。いや、そう思い込めるようになったときに、ようやく旅が終わる。
 固い、しっかりとした大地を歩いている感覚が、ふるさとで生活している心境だとすれば、移住生活は高いビルの谷間に渡した長くてゆらゆらした綱渡りを、ずっと続けているような感覚だと思う。
 たまに日本に帰って成田国際空港の入国ゲート前にある、エスカレーターの上に書いてある「おかえりなさい」という表示を見たとき、いつもホッとする。「ああ、やっと地面に足を下したな」と感じる。
 たぶんこの感覚は2年、3年以上を外国で過ごした人にしか分からない。異国の地で四季を何度も繰り返して、「ああ、またこの季節が来たな」というのを空気で分かるようになったときだ。「終わりのない旅」や「綱渡り」の感覚を日常と思えるまで暮らさないと身に着かない。
 それを経験した日本人は「外国人」になると思う。

空港の待合時間

 日本の日本人にとって一般的に、「外国人」というのは「自分たち以外」の人たちのことだ。
 例えば、身近なところに在日外国人労働者が増えてきて、コンビニや居酒屋の店員、自動車部品工場、干物工場、弁当工場などなど、外国人なしでは日本の産業は回らないところまで来ている。たとえ彼らの中に日本永住を決めている者がいたとしても、同じ日本国住民、日本国市民と思う事はほとんどないのではないか。
 でも、我々のような外国を「第2のふるさと」としている日本人移住者にとっては、自分の方が「外国人」だ。
 外国人であるかどうか―という問題は、生まれながらに備わる属性ではない。ふるさとや祖国で生活をしているかどうか、移民かどうかという部分と直結する「後付けの属性」の問題だ。
 つまり、誰もが「外国人」になりえる。
 グローバル化社会においてヒトやモノの移動は、避けられない部分がある。移動したヒトはすべて「外国人」になる。いわばグローバル化社会のおとしごだ。

ヤフーニュースに載せたコラムに3800件のコメント

 冒頭に書いた感覚は、あまり日本の日本人には理解されないのかも―という感想を、先日書いた《記者コラム・在日ブラジル人にも10万円支給を》をヤフーニュースに出した際にもらった3800千件以上のコメントを読みながら感じた。
 PV(アクセス)数が約195万件もあり、単なるブラジルの日本語新聞としては過去最高を記録した。地球の反対側にある、吹けば飛ぶような公称1万5千部のミニコミ紙が、瞬間最大風速とはいえ、インターネット上ではその130倍の読者の目に触れたわけだ。
 コラムの主旨は《ブラジル在住日本人およびブラジル日系社会の立場からすれば、日本永住を決めているブラジル人も当然、日本国民の一人のはずだ。ぜひ10万円の現金支給をしてほしい》ということ。
 リーマンショックの後、日本に残った在日ブラジル人の大半は、日本で永住しようと決意した「永住組」であり、永住権を持って、子どもを日本の学校へやって育てている。主に永住組に関する支援を主張したつもりだった。余裕があれば、永住権はないが労働する権利があるビザで滞在している人も―ぐらいのつもりだった。だがコラム子の言葉が足りなかったようで、「不法就労者や無滞在資格者にまで支給しろ」と言っているように誤解して、批判コメントを書きこむ人がけっこういた。
 そもそもコラム子は、日本がキチンとした移民政策をとらずに、中途半端な外国人労働者導入を拡大していること自体に反対している。
 寄せられたコメントの多くは、《住民基本台帳に登録されていて納税義務を果たしていれば、日本人でなくても給付されるようです》という情報を教えてくれるもので一安心した。
 「住民基本台帳法」は各自治体が住民全体の住民票を世帯ごとに作成する公簿だ。そこに、2012年の外国人住民に係る入管法等改正法によって、外国人住民も同台帳の適用対象に加えられた。つまり、永住組在日ブラジル人は登録しているから、問題ないことが分かりホッとした。
 ヤフーコメントには、《永住許可が有っても税金を払わず生活保護目当てであれば保護する必要は無いでしょう。寧ろそのような人達は、自分達の本来の国に帰って頂くべきだと思います。人権などと言うのであれば、其々の国で言いましょう。税金を納め生活している人達は、日本国民として助けるのは、当然の事だと思います》というものもあり、「その通り!」と膝を打った。

ブラジルでは外国人、在外者にも支援金を給付

 ちなみに、ブラジルで今回のコロナショック対策として打ち出された非正規雇用者向けの600レアルの給付金(×3カ月)には、外国人も申し込める(https://g1.globo.com/economia/noticia/2020/04/15/sou-estrangeiro-e-moro-no-brasil-posso-receber-o-auxilio-emergencial.ghtml)。
 永住権を問う内容は書いてないが、納税者番号(CPF、日本のマイナンバー)は必要だから、「納税している人」ということだ。
 とはいえブラジル在住日本人で、これを受け取っている人はほんの一握りだろう。受給者条件に家族一人当たりの月収が522レアル(約1万円)以下というものがあり、日本人でそれ以下の生活をしている人は、ほぼいないからだ。
 というか、そんな生活を元々していた日本人は、おそらくとっくに帰っているだろう。
 興味深いことに、在外ブラジル人もこの600レアルは受け取ることができる。ただし、「恒久出国申請」(declaração de saída definitiva)を国税庁に提出した人は、受け取る権利を消失している。ブラジルと外国の両方で税金を納めている二重生活をしている人のみだ(https://www.brasil247.com/geral/brasileiros-no-exterior-tambem-tem-direito-ao-auxilio-emergencial-conheca-os-requisitos)。
 ということは、在日ブラジル人の永住組は恒久出国申請をしているだろうから、受け取る権利を持たない。やはり、日本で支援して欲しい。

国籍さえあれば、日本人として信用できるのか

妙に懐かしさを感じる、ふるさと日本の何げない日常

 《記者コラム・在日ブラジル人にも10万円支給を》のコメント欄を読んでいて気になったのは、在日外国人に対して、永住組と短期滞在者を一緒くたにしている人が多く、また、国籍に対する純粋な思い込みが強いことだ。
 たとえば、次のような書きこみだ。
《ていうか外国人ってことは国籍が外国にあり、その外国に国民を守る義務が発生するんだろうから、そういう人は本国にお帰り願えばいいだけじゃないの?
 納税してる/してないは日本に滞在するために必要な代金だと解釈すればいい。
 外国に国籍のある人をそこまで日本政府が守ってやる必要性ないでしょ。
 そこまで外国人に媚びる必要ない。あくまでも日本政府が守らなければいけないのは「日本国籍をもった日本人」だけだと思います。(中略)
 この記事を書いた筆者は考え方がズレてるし、発想が図々しい。生活できないなら本国に帰ってください》
 《マイナンバー導入した意味ないよね。
 外国人の保護は自国がやるべきで、日本が負うべきことではない。
 納税してようが、日本国籍をもたないのだから》
 このような書きこみをする人は、在日外国人の裏返し「外国人としての日本人」の気持ちが分からない人だと感じる。
 外国に住んでいる日本人には、仕事やいろいろな都合でその国に帰化している人もたくさんいる。だが、それ以上に日本国籍に誇りを持って、それを保持し続けている人もいる。「遠隔地ナショナリズム」的な現象であり、日本の日本人以上に日本人であることに誇りを持っている移住者はブラジルにも多い。
 同じ現象は、日本に住んでいる外国人にもあるだろう。つまり、「日本という国が好きで永住したいが、できるだけ国籍は元のままでいたい」というケースは多い。
 「国籍」は生まれながらについてくる基本属性だ。対して「外国人」という属性は、幼少時に親に連れて行かれた場合もあり、好き嫌いを問わずに後から身につけた属性だ。だが、帰化することができるから、国籍だってその人の精神性、アイデンティティを現しているとは言いがたい。
 むしろ、国籍を過信することは怖い。国籍を持っているからといって、その人が「心まで100%日本人」であるとは限らない。
 たとえば20年ほど前、当時、サッカー日本代表をしていた某ブラジル人サッカー選手(日本国籍)を取材した。彼が里返りした折、サンパウロ市で会った。
 仮にも日本代表選手なのだから、てっきり日本語で取材できると思って話しかけたら、「ここはブラジルだから、俺はブラジル人。ここでは日本語はしゃべらないから、お前の方がポルトガル語で質問しろ」と言われた。
 彼は二重国籍だったから、彼の言い分にも一理あると思い、ポルトガル語で取材した。だが、なにか釈然としないものが残った。彼はもちろん日本では「日本人」と言われている。
 国籍があれば日本人として信用できるのではない。国籍は一つの判断材料にすぎない。大事なのは日本のことがとにかく気に入っており、永住する気持ちがあるかどうかだと思う。

映像化してほしい『血の記憶』

『血の記憶』(麻野涼、文芸社文庫、2020年)(https://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-21874-8.jsp)

 クアレンテナ(検疫)のおかげで、『血の記憶』(麻野涼、文芸社文庫、2020年)という興味深い社会派ミステリー小説を読んだ。奇しくも在日外国人が主人公になっていた。
 外国人の血が入ったような特徴のある容貌と、笑いを誘う軽妙なコメントでバラエティ番組の人気者、モデル出身の若い女性タレントである主人公SUMIREは、赤ん坊の時に渋谷区の病院前に捨てられているのを保護された。「私には両親の記憶がまったくありません」という謎の出自をもっている。
 芸能界に入った理由も、「有名になれば両親が名乗り出てくれるのでは」という儚い希望からだった。
 事件は、在日ブラジル人労働者がたくさんいることで有名な静岡県浜松市のスーパーで起きた。閉店間際に、アジア系外国人に地元のグローバル企業社長の娘と孫が拉致される。そこで出された犯人の要求は、よくある大金ではなく、「社長の左手を切断しろ」という理不尽なもの。

サンパウロの国際空港で別れを惜しむ訪日就労者と留守家族。デカセギブームを報じる2018年5月21日付エスタード紙

 そこに1990年の日系人によるデカセギブーム開始時、2008年のリーマンショック時に、不自然と思われる左手や左手の指を切断する重大事故があちこちの工場で起きていた本当の出来事が重なり、犯人像が徐々に明らかにされていく。
 SUMIREの父親が同グローバル企業で働いていた外国人であることが分かり、彼女があるニュース番組でその事件をコメントしたのを犯人が見て、驚きの行動に出る。そこからストーリーが急展開し、予想外の結末に繋がる。
 物語には、東京の六本木のバーで演奏をする黒人系日本人ミュージシャンBJという個性的なキャラクターも登場する。実在の人物がモデルになっており、進駐軍の米兵と日本人女性の間にできた混血児を預かるエリザベス・サンダース・ホーム(神奈川県大磯)育ちの黒人系日本人だ。
 仲間の8人の孤児がブラジル・パラー州のトメアスー移住地にある第2同ホーム(聖エステファニー農場)に1963年に移住したのを見て、「自分もブラジルへ」と夢見るが、政府がビザを出し渋るなどの問題が起きて、移住を諦めた。
 最後は、拉致現場とテレビ局のスタジオが混然となったラストには、手に汗にぎらされる。
 ぜひ実在の売れっ子アイドルを起用して、映画やテレビドラマ化してほしいストーリーだ。
 「在日」と言われる人々は、韓国人や中国人ばかりではない。外見や国籍では簡単に測れない「多彩な日本国住民」の群像が、『血の記憶』にはちりばめられている。
 TBS開局60周年記念『99年の愛 〜JAPANESE AMERICANS〜』(2010年)、NHK放送80周年記念・橋田壽賀子ドラマ『ハルとナツ 届かなかった手紙』(2005年)など、戦争前後の日系人の歴史を描いたドラマや映画は作られている。
 だが「今現在の在外邦人」に関して、ドキュメンタリーばかりでドラマにはなっていない気がする。「外国人になった日本人」が何を思い、考えているのか。グローバル化したなにげない日常、それを結晶化させた文章、映像を発表する人に出てきてほしい。
 「外国人になった日本人」が容易に想像できれば、「日本国内でどう外国人を扱えばいいか」と言う、良い意味での日本らしい方式が生まれるのではないか。
 『血の記憶』のような日本永住を決意した外国人を主人公にした物語や、外国に永住をする在外日本人のドラマをもっと作り、グローバル化した現実、日本人も外国人になるという事実を描き、日本の一般常識に織り込んで欲しい。(深)