新日系コミュニティ構築の“鍵”を歴史の中に探る=傑物・下元健吉(29)=その志、気骨、創造心、度胸、闘志…=外山 脩

自宅でくつろぐ下元、二カ月後に急逝

自宅でくつろぐ下元、二カ月後に急逝

急逝!

 繰り返しになるが、下元健吉は絶頂期の…その波頭の上に立っていた。
 人の運命とは不思議なもので、こういう時が危ない。
 農業展覧会から5カ月後の9月、その25日の昼食時刻、組合本部事務所三階、理事長室の隣りの応接室で発作を起こした。
 実は、これ以前から、健康の衰えや疲労はハッキリしていた。心臓に疾患があって高血圧症に侵され、自宅の湯殿で倒れたのを始め、軽いものを含めると10回くらい発作を起こしていたのである。周囲の忠告で休養したが、十分ではなかった。重要な仕事が山積していたためである。
 応接室での発作時の様子は、現場に居合わせた幾人かの記録が残っている。それによると――。
 一幹部職員は、その時、本部事務所の外で同僚と雑談をしていた。突然扉が開いて飛び出してきたある理事から「オイ、下元さんが倒れたゾ」と知らされた。
 驚いて3階まで上がり、理事長室に入ると、いやにシンと静まりかえっており、隣の応接室へ通じる扉が半開きで、そこに居た外来者たちが、部屋の中の一点を見つめていた。
 視線の先では、下元がソファーに崩れるように腰を下ろしており、苦悶の表情であった。
 また同日、取材に訪れていた邦字新聞の一記者は、サントスの漁師たちが下元を訪問していることを知り、その結果を聞こうとして待機していた。
 ところが、周囲の空気がおかしくなった。漁師たちが階段を下りてきた。その表情や態度が尋常ではなかった。
 理事や幹部職員が次々と詰めかけた。記者は3階に上がり応接室に入った。椅子に横たわった下元を見た。顔面蒼白で額に汗を流し、苦しそうだった。
 右の二人以外の記録も含めて状況をまとめると、この直前、下元は漁師たちと、日本から進出してきた大洋漁業との悶着について話していた。
 大洋の進出には、政府の許可取得に関して、コチアが協力していた。が、地元の漁師による反対運動が起きた。大洋の様な大企業に進出されては、弱小な地元漁師は潰れてしまうという理由による。
 現に、大洋が操業を始めると、サンパウロ市場で魚価の暴落が起きた。
 ために、下元が調停に入ったが、交渉は難航、経緯は曲折を経ていた。
 この日も、その件で相談中、下元が発作を起こしたのである。
 以後、下元は一時間余、蒼白の表情で全身から汗を噴き出し、嘔吐し、頭痛・のどの渇き・寒さを訴えながら「大洋はけしからん」「大洋は組合に入らにゃならん」「大熊を呼べ、話がある」と数語を発した。
 この場合の組合というのは地元漁師たちが創ったそれで、大熊というのは、この悶着の関係者であろう。
 やがて下元は「今度はヤラれた」「今度はダメだ」「皆、元気で組合をもり立ててくれ」と三度繰り返し、意識を失い、息を止めた。
 59歳であった。経営者としては、当時でも若すぎる最期だった。
 この頃、彼は死を意識していた――とする説もある。資料類をザッと散見しただけでも、次の様な記述が見つかった。
「死に物狂いで働いていた」
「何かに憑かれた様だった」(幹部職員)
「死を覚悟で働いていた」(元理事)
「死に物狂いで組合を守った」(元古参職員)
    (つづく)