特別寄稿=「歌は世につれ 世は歌につれ」=コロナ禍に昭和歌謡を懐かしむ=サンパウロ市ビラ・カロン在住 毛利律子

古関裕而(本人/Public domain)

 外出禁止のコロナ禍が長期戦ともなると、なんらか好みに合った物事を見いだして楽しく過ごす方法を考えなくてはならない。そういう日々で痛感するのは、パソコンの有用性である。
 インターネットを使って一昔前の映画、古今東西の名曲、歌謡曲などを楽しむのもよい。まさに今、NHKの朝ドラ番組で日本を代表する作曲家古関裕而のドラマが放映され、懐かしいメロディーの数々を堪能しているところだ。
 戦後生まれの団塊世代にとっては、両親、祖父母が常に口ずさんでいた歌謡曲、古い校舎で歌った童謡は子供心に強く刻み込まれ、曲を聴きながら当時を想い、涙ぐみながら、往年の歌手の歌声に合わせていつの間にか口ずさんでいるのである。

「歌は世につれ 世は歌につれ」

 この言葉は昭和の歌番組の冒頭に名司会者のナレーションで流れていた。
 その意味するところは
、「歌は世の成り行きにつれて変化し、世のありさまも歌の流行に影響される。ある時代によく歌われる歌は、その時代の世情を反映しているもの」。
 それにしても、驚くような古い映像から名曲の作詞家・作曲家群像の歴史を知る。そのような人々は天賦の才を持った、天から下りてきたような人々であると確信するのである。
 しかも、たとえ時代がどんなに過酷であっても、またその天才たちの人生が波乱万丈であったとしても、生み出された作品は神がかっていて、それこそ、何物にもまして人を癒してくれる力を備えている。

美しい日本語を歌う

 大作曲家・古関裕而(こせきゆうじ、1909年―1989年)は80歳の生涯で5千曲を作ったという。そのレパートリーは、軍歌、歌謡曲、応援歌などに幅広く、作曲の作業には楽器を一切使わずに頭の中だけで作曲したというから、これこそ神がかりの技といえよう。
 古関裕而はまた、多くの、天才作詞家とともにヒット曲を連発している。その一つの『君の名は』の主題歌が、古関裕而作曲と知って驚いた。
 このラジオドラマはすぐに映画化され、主演の佐田啓二と岸恵子の美しさはもとより、同時に歌手・織井茂子の歌声が忘れられなかった。
 私は洋画を好んで観ていたので、『君の名は』の設定は、ロバート・テーラーとビビアン・リーの『哀愁』で、二人が出会うロンドンのウォータールーの橋の上の場面に重なった。
 映画の一場面では、この絶世の美男美女が踊る「別れのワルツ」(原曲はアイルランド民謡。日本では「蛍の光」として歌われている)にもっぱら心を奪われていた。
 しかし今、改めて古き『君の名は』の映像を見ると、佐田啓二も岸恵子も本当に美しい。日本人の俳優もこんなにも綺麗であったかとほれぼれとしつつ、また、歌詞のすばらしさはもとより、この物語や歌詞をこれほど美しいメロディーに変えしまう作曲家の創造力に圧倒されるばかりである。
 古関裕而と菊池一夫は共に、挙げればきりがないほど多くの作品を世に送っているだけでなく、膨大な数の歌の一つ一つには、全てにその曲が生まれるためのエピソードが備わっているということも、とても興味深い。
 もう一人は詩人、フランス文学者で、早稲田大学の教授であり、作詞家の西條八十(さいじょうやそ、1892年―1970年)がいる。童謡、歌謡曲、軍歌、校歌、社歌で残した作品は1万5千以上といわれている。そしてそれらの歌は、時代を作る名曲となった。

西條八十という天才

西條八十(Unknown author/Public domain)

 生まれは東京新宿で、実家は石鹸製造で大地主であった。だが父の死後、実兄が土地と家の権利書をすべて持ちだして遁走し、家は没落した。生活は困窮し、天ぷら屋をしたり、株に手を出したりしながら苦学して早稲田大学文学部を卒業したが、その間はほとんど作詞活動をしていなかったという。
 そのような中で生まれた童謡が『かなりや』である。この詩は1918年、『赤い鳥』十一月号に掲載され、成田為三が詩に曲を付けた。レコード化された童謡としては最初の作品とされる。
 『唄を忘れたカナリヤ〈金糸雀〉』の歌詞を読んでみよう。
「唄を忘れたカナリヤは 後ろの山に捨てましょか。 いえいえ それはなりませぬ。 背戸の小藪に埋〈い〉けましょか。 柳の鞭でぶちましょか いえいえ それはかわいそう」
 とても童謡とは言えない厳しい歌詞である。
 童話が子供を対象としたものばかりではないのと同じように、童謡も人生を通して歌い継がれるものだから、であろう。
 そして最後は、
「唄を忘れたカナリヤは 象牙の船に銀の櫂〈かい〉 月夜の海に浮べれば 忘れた唄をおもいだす」
 この一節は、「人は『場所』が与えられたら、その才能は開花するのである」ということになろうか。この歌は、ひとつの深い訓示であり、励ましとも、受け止めている。
 さて、西條八十は象徴詩人として活動する中、関東大震災で被災する。その夜に、上野公園に逃げ延びて呆然とした人々の群れの中で、一人の少年がハーモニカを吹き始めた。それは『船頭小唄』であった。そのハーモニカの音色に合わせて被災者たちの中から歌声が広がり、辺りは大変に和まされた。西条八十はその時のことを次のように綴った。
 「一口いえば、それは冷厳たる荒冬の天地に、のたる春風が吹き入ったかのようであった。山の群衆は、このハーモニカの音によって慰められ、心をやわらげられ くつろぎ 絶望の裡(なか)に 一点の希望を与えられた」(西條八十・唄の自叙伝)
 西條はその時、政治や、高尚な文学、芸術的詩文より、庶民の歌う流行歌の方が、どれほど人の心を和ませる力があるかを痛感したのであった。
 このことを機に、童謡詩人、早稲田大学講師であった西條は流行曲作詞家の道を突き進んでいく。

移民の心にも沁みる「誰か故郷を想はざる」

 それらの膨大な作品の中から、自分好みで選んだ歌を挙げてみた。
童謡
『肩たたき』
『鞠と殿様』
『お月さん』
歌謡曲
「東京行進曲」
「銀座の柳」(作曲:中山晋平)
「東京音頭」(作曲:中山晋平)
「サーカスの唄」(作曲:古賀政男)
「旅の夜風」(作曲:万城目正)
「支那の夜」(作曲:竹岡信幸)
「東京ブルース」(作曲:服部良一)
「誰か故郷を想わざる」(作曲:古賀政男)
「蘇州夜曲」(作曲:服部良一)
「若鷲の歌」(作曲:古関裕而)
「三百六十五夜」(作曲:古賀政男)
「青い山脈」(作曲:服部良一)
「越後獅子の唄」(作曲:万城目正、歌唱:美空ひばり、1950年)
「角兵衛獅子の唄」(作曲:万城目正、歌唱:美空ひばり、1951年)
「ゲイシャ・ワルツ」(作曲:古賀政男)
「ひめゆりの塔」(作曲:古関裕而)
「この世の花」(作曲:万城目正、歌唱:島倉千代子、1955年)
「王将」(作曲:船村徹、歌唱:村田英雄、1961年)
 こうしてみると、馴染みの深い歌ばかりである。しかも、詩人の言葉であるから、非常に美しい。制作のきっかけになったエピソードも、とても面白い。
 例えば、「王将」の「愚痴も言わずに女房の小春」は、西條の奥様のことであった。
 昭和15年(1940年)発売の戦時歌謡曲、「誰か故郷を想はざる」は、作曲:古賀政男、歌:霧島昇で、私の大好きな歌の一つである。

戦地を慰問して「誰か故郷を想はざる」を歌った渡辺はま子。1938年に発売された「支那の夜」宣伝用スチール(Unknown author/Public domain)

 「誰か故郷を想はざる」は「故郷を想わない人はいない」という意味の反語で、当初、難解すぎてヒットしないと判断された。ところが、戦地で望郷の想い止みがたい兵士の間で大ヒットし、内地に逆輸入されたという。慰問に訪れた歌手の渡辺はま子がこの歌を歌うと、満場泣きながらの大合唱になったエピソードもある。
 その歌詞は、次のようになる。
 「花摘む野辺に 日は落ちて みんなで肩を くみながら 唄をうたった 帰り道 幼馴染の あの友この友」と、先ずは、ふるさとの風土で育った友のことを歌う。
二番目は、親に変わって育ててくれた「姉」のことである。
 「ひとりの姉が 嫁ぐ夜に 小川の岸で さみしさに 泣いた涙の なつかしさ」
 そして、やはりそこには「幼馴染の あの山この川」がある。日本人特有の自然観が育まれ、望郷の思いが尽きない場所なのである。
 日本を離れ、故郷を離れた移民、移住した者にとっても、ふるさとを想わないことは無いであろう。何時の時代にも、誰の心にも、生まれ育ったふるさとへの想いは募るばかりで消えることは無いであろう。

戦後という時代の勢いがこめられた「青い山脈」

 「青い山脈 (作曲・服部良一)」は、戦後の復興に寄せる思いが歌われ、国民歌ともいわれるほど、誰もが歌っているのではないか。
 何故「青い山脈」なのか。「若くあかるい 歌声」は一人ではない。弾けるような躍動感あふれる青年たちが連なった「青い山脈」であり、その歌声は「空のはて」に響いていく、と謳うのである。
 それまでの、「古い上衣を脱ぎ捨てて」、さらに新しい時代は、「乙女と旅」を結び付けている。まさに新時代到来を感じさせる。
 大きな苦難を乗り越えた後の大地には、「雨にぬれてる 焼けあとの 名も無い花も ふり仰ぐ」。青い山脈の稜線の嶺は輝いているのである。
 4番目は、3番目までの明るい歌声の響く前向きな姿勢だけでなく、人は忘れてはいけない、大切にしなければならないことを教える人生訓が歌われていると、私は考えている。
「父も夢見た 母も見た
旅路のはての その涯の
青い山脈 みどりの谷へ
旅をゆく
若いわれらに鐘が鳴る」
 こうして歌詞を口ずさむだけでも、涙が溢れてくる。
 先にも述べたが、詩人、作曲家、芸術家という人々の作り出す作品は、神業そのものといえよう。それらは真似をして出来るものではない。
 それら特別の人に与えられた才能が、為るべくして為るものであり、その魂が英々として歌い継がれていくのだということを教えられるのである。

童謡界の三大詩人・野口雨情

野口雨情(See page for author/Public domain)

 詩人・野口雨情は、北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われている。
代表作は
『十五夜お月さん』
『七つの子』
『赤い靴』
『青い眼の人形』
『シャボン玉』
『こがね虫』
『あの町この町』
『雨降りお月さん』
『証城寺の狸囃子』
『よいよい横町』
 他に『波浮の港』『船頭小唄』など、枚挙にいとまがない。
 この中の、『シャボン玉』(1922年)の歌詞を読んでみる。
「シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んで こはれて消えた」
「シャボン玉消えた 生まれてすぐに こはれて消えた」(旧カナ使い)
 歌詞にはシャボン玉で子どもが遊んでいる様子が描かれているが、これに夭逝した子供への鎮魂のために書かれたという説がある。
 それによると、長女「みどり」は人形のように愛らしい赤ん坊であったが、産まれて7日目に死んでしまった。当時は、乳幼児が死ぬのはさほど珍しいことではなく、2~3割の子供が学齢前に死亡していた。そのため、夫婦は子供を何人も産み、一所懸命育てた。雨情もその後何人かの子供を授かっているが、長女の死を後々まで悔やんでいたという。
 ある日、村(茨城県多賀郡磯原村)の少女たちがシャボン玉を飛ばして遊んでいるのを見た雨情が、娘が生きていれば今頃はこの子たちと一緒に遊んでいただろうと思いながら書いた詩が、この「シャボン玉」だというのが最もよく知られる説である。現状では鎮魂歌説を含め、いずれの説も確たる根拠を欠いていると解説されている。
 しかし、歌う側はいろいろと自分の身に当てて歌うもよし。雨情の人生を想像するもよし、ということであろう。一つ言えることは、神がかった詩人の作品といえど、私たちと同じように、様々な喜怒哀楽の人生から生まれているということである。
 全く見ず知らずの作詞家・作曲家が私の人生を歌ってくれている。辛いこと、悲しいことを分ってくれる人がいる。何の解説も要らない。それぞれの人生の道程で、自分のこととして歌う心の歌である。その歌ともに湧き上がる心強さ、安心感、希望に満ち満ちてくる思いを抱いて、歌い続けていきたい。
 因みに、西條八十は三越百貨店の社歌を作詞しているが、歌うのは美空ひばりで、タイトルは『我が家の燈火』という。後に、三越と並んで有名なデパート「そごう」は、宣伝戦略の一環として1957年、フランク永井の歌う『有楽町で逢いましょう』を発表した。作曲は吉田正、作詞は西條八十の弟子、佐伯孝夫であった。
 今、思いがけなくも嵌ってしまったこの状況下で、ゆっくり思い出の歌に思いを巡らしてみるのも贅沢なひと時になるのではないだろうか。