特別寄稿=マチュピチュ村を作った日本人=ペルーに生涯捧げた野内与吉=サンパウロ市在住  酒本 恵三

廃墟のような先住民の村が世界遺産に

マチュ・ピチュ遺跡(2009年、Martin St-Amant (S23678))

 マチュピチュ。南米ペルーの世界遺産。この謎に包まれた標高2430mにある空中都市に、一生に一度は訪れたいと思う方も多いのではないでしょうか。
 インカ帝国の遺跡であるマチュピチュは、1911年7月24日にアメリカの考古学者ハイラム・ビンガムに発見されてから、すでに100年以上経っています。
 そんなマチュピチュの麓にあるマチュピチュ村は、20世紀の前半から林業や鉄道建設で発展を遂げ、世界中からマチュピチュを目指して訪れる旅人達の拠点となっています。
 マチュピチュ村の人口は約3千人、半日もあれば周りきれる村ですが、年間200万人が世界中から訪れることから観光客向けのお土産屋が多く、日本食のレストランや温泉まで存在し、もはや村と言うよりは一大観光施設となっています。
 この村を創ったのは、人生を村に捧げた一人の日本人でした。その日本人の名は野内与吉。
 与吉は、1895年11月18日、福島県安達郡大玉村で生まれました。裕福な農家の家庭に生まれましたが、ゴムの景気に沸いていた「南米で成功したい」という希望を胸に、1917年、与吉は21歳と言う若さで日本人移民としてペルーに渡ります。
 その当時のマチュピチュは、ジャングルに埋もれ廃墟と化しており、わずか4族の先住民が暮らしていたとても小さな集落でした。ペルー国内の大木を外国に輸出する、材木商としての技術と知識を身に付けていた与吉は、このマチュピチュ周辺の豊かなジャングルに目を付けます。
 また、ペルー国鉄(FCSA)クスコ―サンタアナ線に勤務し、電車の運転や線路拡大工事に携わり、1929年にはクスコ―マチュピチュ区間の線路を完成させました。
 手先がとても器用だった与吉は、様々な工具を作り、何も無かった村に川から水を引いて畑を作り、村人たちと共に水力発電を考え、村に電気をもたらしました。

温泉掘ってホテル建設、初代村長に

 またある日、与吉が村の拡大のために木を伐採していた時、大木が倒れた拍子に大きな穴が開いて温泉が湧いてきました。そこで与吉は温泉を石で囲って、入れるように整備して村人に開放しました。
 遺跡と温泉で多くの客を見込んだ与吉は、1935年村で初の本格的木造建築である三階建ての「ホテル・ノウチ」を自らの手で建設します。建物の一部には線路のレールが利用され、床は当時では高価だった木材を用い、三階建てで21部屋の立派なホテルでした。
 そして驚く事に、このホテルを村のために無償で提供し、一階は郵便局や交番として、二階は裁判所や村長室として使用される事になったのです。
 村にとって重要な役割を担う「ホテル・ノウチ」が中心となって、マチュピチュ村は発展していきました。与吉がマチュピチュに来て18年、誰もが信頼する存在になっていました。
 灯りがともる村の噂を聞きつけ、徐々に住民も増えていきました。与吉はスペイン語のほか、先住民の言語であるケチュア語に通じ、英語も喋り、現地ガイドもしていました。1939―1941年にはこの地域の最高責任者である行政官を務め、1941年にこの地域が正式に「マチュピチュ村」となったため、そのまま「初代村長」となりました。

三笠宮殿下ご訪問で故郷福島に知られる

東京大学総合研究博物館サイトにある野内与吉のページ(http://www.um.u-tokyo.ac.jp/web_museum/ouroboros/v19n3/v19n3_nouchi.html)

 1941年、太平洋戦争が勃発。その影響は南米にも拡大し、当時連合軍側であったペルーは、日本人移民を次々と捕えていきました。
 もちろんペルー政府は与吉の下にも憲兵を派遣しましたが、マチュピチュ村の人々は身を挺して憲兵から与吉を守ったのです。
 1947年、記録的な大雨が発生し、村を土石流がおそったときには、与吉は塞ぎがちな村人を励まし続けました。
 村に尽くした与吉は次の世代にバトンを渡すと、晩年はクスコで子共たちと余生を過ごしています。
 1958年、三笠宮殿下が村を訪問した際、与吉の娘オルガが花束を贈呈しました。この新聞記事により、福島にいる親族が、与吉の消息を知ることとなります。
 野内家の人達は与吉の旅費のために10年かけて100万円を集め、ついに1968年、与吉は福島県大玉村に52年ぶりに帰郷できることとなりました。
 与吉の両親はすでに他界していましたが、兄弟や親戚達が歓迎してくれました。
 日本に着いた与吉は、「電気は着いたか?」と質問しました。与吉の中で、時間は当時のまま止まっていたのです。
 日本滞在中は新聞やラジオにも出演し、半世紀ぶりの帰郷に「現代の浦島太郎」と日本でも大きな話題となりました。

村人に見守られる中、クスコに骨を埋める

 家族は日本に戻るよう説得しましたが、自分の帰りを待つ11人の子供を想い、ペルーのクスコに戻ります。そしてクスコに戻ったわずか2カ月後の1969年8月29日、家族と200人の村人が見守る中その生涯を終えました。
 こういったマチュピチュ村と鉄道の歴史そしてそれに尽力した日本人の物語は余り知られていませんでした。
 与吉の孫の一人である野内セサル良郎は、この興味深い事実を一人でも多くの方に知ってほしいと、活動を続けています。
 なぜ彼は、自分が生まれる6年も前に亡くなっていた祖父の事を語ろうとするのでしょうか。
 「それは祖母が繰り返し祖父の話を聞かせてくれていたからです。『あなたのおじいちゃんは責任感の強い人で、村の裁判官もやっていたんだよ』などと祖母から話を聞くうちに、私の中で祖父は英雄になっていた。日本で働きながら、名古屋の国際交流団体でマチュピチュ遺跡などペルー文化紹介の講師をしてきたのも、祖父に対する思いがあったからです」とセサル良郎は応えています。

故郷がマチュピチュと姉妹都市協定

故郷に作られた野内与吉資料展示室を報じた「海外移住史料館だより」51号(https://www.jica.go.jp/jomm/newsletter/pdf/dayori51.pdf)

 与吉の故郷である福島県大玉村は、2015年にマチュピチュ村と友好都市協定を結んでいます。世界的に知名度の高いマチュピチュ村にはこれまで世界各地の自治体から友好協定締結を求める声がありましたが、緑の深い大玉村を初めての提携相手として選んだのでした。
 日本人が初めて海外移住したのは明治元年でした。昭和の大戦終了時までに移住した人数は、北米20万人、ハワイ20万人、中南米20万人、樺太28万人、中国27万人に及んでいます。
 主に貧農の次男、三男と言う人達が多く移住し、低賃金で過酷な労働を強いられ、また荒地の農園開拓者として筆舌に尽くせぬご苦労をされたようです。
 移民として遠いペルーで生きた野内与吉さんの人生は、現代を生きる私たちからはとても想像できない過酷だったものに違いありません。
 リゾート地を思わせるマチュピチュ村を創った偉大な日本人「野内与吉」氏がいたと言う事実を日本人として誇りに思い、忘れずに語り継いでいきたいと思います。