日本移民と感染症との戦い=世界最大の日本人無医村で(4)=悪性マラリアの巣窟アマゾン

移民船を降りてブラジルに上陸する日本人たち(『在伯同胞活動実況写真帳』(1938年、竹下写真館 高知県古市町)

移民船を降りてブラジルに上陸する日本人たち(『在伯同胞活動実況写真帳』(1938年、竹下写真館 高知県古市町)

 本紙4月2日付に「コロナ災禍 連帯メッセージリレー」第1回目として掲載された《今は耐え、いずれ一気に行動へ!》と題するブラジル日本都道府県人会連合会・山田康夫会長(当時)の寄稿文には、こんな一節があった。
 《過去を振り返れば、日系社会はこの新型コロナウイルスの問題以上の多くの困難を乗り越え、今日に至っております。
 こういった時こそ、今まで培ってきた努力や乗り越えてきた壁を思い浮かべ、もう一度私達日系社会で一丸となって頑張っていきましょう》
 この《新型コロナウイルスの問題以上の多くの困難》という言葉を聞き、最初こそ「何をおおげさな」と思ったが、よく思い返せば「まったくその通り」と深く納得した。移民史をひっくりかえせば「比較にならない」ぐらいに悲惨な事例が事欠かないからだ。
      ☆
 パラー州ベレン市在住の堤剛太さんは、5月13日付で《特別寄稿=新型コロナ騒動とアマゾン移民史=往時のマラリア禍の心情を今に懐う》を寄せてくれた。
 そこには《アマゾン地方に入植した移民の人達が過酷な熱帯の気候下、待ち受けていたマラリア、アメーバ、黄熱病、象皮病、寄生虫類等の熱帯病・風土病の前になす術もなくバタバタと斃れて行った事に関して、その頃と現在の新型コロナ禍は似たような状況だったのだろうかと、考え込んだ》と書かれている。
 《新型コロナへの感染者数が増加し続け現在では、罹患者を収容できる医療施設が無いに等しいとのベレン市長の苦渋の発表を聞くにつけ、開拓当初病に倒れても病院へ運ぶ事すらできず帰らぬ人となった多くの犠牲者の話が重なってきた》と述懐される。
 堤さんが想起しているのは、悪性マラリアの巣となったトメアスー移住地の開拓初期のことだ。《入植4年後の1933年1月に158人の罹病者を数え、その年の暮れには3065人にまで膨れ上がっている。この時期の日本人入植者数が、2043人であったから一人で何回も罹病していた事になる。これは、新型コロナの感染率どころの騒ぎではない》とまで書かれている。

トメアスー移民史料館に展示されている開拓当時の医療器具

トメアスー移民史料館に展示されている開拓当時の医療器具

 《入植地内に蔓延する悪性マラリアに移住者たちは震え上がった。栽培作物が安定せず、将来性の見通しが立たないところへこの疫病の追い打ちである。恐怖心から、入植地を逃げ出す家族が相次ぎ1937年までにその数は、276家族1603人にも及んでいる。当時、同入植地には352家族2104人が入植していたが、77%もの脱耕率で、入植地に残ったのは僅か76家族501人であった》
 2千人以上の移住地で脱耕率77%というのは他にない。アマゾン入植の厳しさを伝える数字だ。
 その時の様子を克明に伝える自分史がある。本紙でも2004年に掲載した『アマゾンの少年の追憶』(https://www.nikkeyshimbun.jp/2004/amazon-2.html)だ。
 1930年に家族でアマゾン移住した開拓生活の日常を、当時十歳だった小野正少年の目から淡々と描いた作品。初期のパラー州アカラ植民地の開拓生活を通して、心温まる家族の絆を克明に綴っている。だが、その物語のハイライトは、無慈悲にも家族が次々にマラリアに襲われる場面だろう。(つづく、深沢正雪記者)