知っておきたい日本の歴史=徳力啓三=(5)

ライトアップされた平城京の朱雀門(Tomomarusan、 From Wikimedia Commons)

大宝律令と平城京

 701年、大宝律令がつくられた。「律」は刑罰、「令」は政治のしくみを定めた法律で、律令に基づいて政治を行う国を律令国家とよぶ。日本はこうして律令国家として1300年も前に完成した。
 律は唐にほぼならったものであったが、令は日本の実情に合わせて独自につくられた。たとえば、国政全般をつかさどる太政官のほかに神々の祭りをつかさどる神祇官が特別に置かれた。日本は中国に学びながらも独自の法律をつくりあげた。
 710年、律令国家の新しい都として、奈良に平城京をつくり遷都した。これよりのち、京都に都が移るまでのおよそ80年間を、「奈良時代」という。平城京は唐の長安を手本にして設計された。
 日本の国情に合わせてつくられた部分もある。防備のための城壁などはなく、平和な国情をあらわしていた。都には、碁盤の目のように道が通され、その北側の中央に、天皇の住まいや役所のある平城京が置かれた。
 東西二つの市(いち)では各地の産物が売り買いされ、唐の制度にならって富本銭(ふほんせん=日本最古の貨幣)という独自の貨幣も発行された。平城京の繁栄ぶりは、歌にまで歌われた。
 奈良時代の日本の人口は約600万人と推定されているが、平城京には約10万人が住んでいた。朝廷の役人が約1万人で、そのうちの約200人の人々は、天皇から高い地位をあたえられた、中央の有力な豪族だった。彼らは貴族とよばれ、朝廷で政治にたずさわった。国政は主な役人の合議によって進められた。
 律令国家のもとでは公平な統治をめざして、全ての土地と民を国家が直接おさめる公地公民(こうちこうみん)の原則が打ち立てられた。この原則に基づき、人々に平等に土地を分ける、班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)というしくみが整えられた。
 この法では6年ごとに改める戸籍にもとづき、6歳以上の男女に生活の基礎となる口分田(くぶんでん)が与えられ、亡くなると返還した。口分田を貰った公民は、租、調、庸と呼ばれる税を納めた。この制度は唐にならったもので実態に合わせてたびたび修正された。

最初の日本の歴史を編纂

本居宣長による『古事記傳』(Yanajin33、 From Wikimedia Commons)

 律令制度のもとで、地方は60あまりの国に分かれ、国ごとに朝廷から国司が派遣された。国の役所が置かれたところを国府(こくふ)と呼ばれた。中央と地方とを結ぶ大きな道路には駅が設けられ、役人が乗り継ぐ馬が用意された。
 現在の福岡県には大宰府(だざいふ)を置き、九州地方の統制や外交の窓口、更には沿岸防備の役目を与えた。東北地方には宮城県の多賀城と秋田県の秋田城を築き政治や軍事に当たった。
 天武天皇は、律令国家のしくみが整うのに合わせて、国のおこりや歴史をまとめることを命じ、その編纂事業は次の天皇に引き継がれた。712年には『古事記』(こじき)が完成し、全3巻の中に、民族の神話と歴史が筋道立った物語としてまとめられた。ついで720年には『日本書記』(にほんしょき)全30巻が完成、国家の正史として、歴代の天皇の系譜とその事績が詳細に記述された。また朝廷は国司に命じて、地方ごとに伝説や地理、産物を調べ『風土記』(ふどき)をつくらせて各地のようすを記録させた。
 聖武天皇(724 – 749)の治世、疫病や天災がたびたび起こり、税をのがれるために、口分田を捨てて逃亡する農民もあらわれた。朝廷は、開墾を奨励し、743年には墾田永年私財法を作った。この法律は開墾者の権利を認めるもので、人々の開墾への意欲をかきたて耕地の拡大に繋がった。有力な貴族や寺院も私有地を広げた。
 聖武天皇と光明皇后は、国ごとに国分寺と国分尼寺を置き、日本の隅々まで仏教の心をいきわたらせることにより、国家の平安をもたらそうとした。都には、全国の国分寺の中心的な総国分寺として東大寺を建て、大仏造立を命じた。
 行基は橋や用水路をつくるなどして多くの人々の信頼を集めた僧である。行基も又大仏造立に大きく貢献した。大仏開眼の儀式はインド出身の高僧も加わって、盛大に行われた。
 聖武天皇のお后である光明皇后は、悲田院(貧しい人や孤児の保護施設)や施薬院(病人に薬や治療を施す施設)を建て、ご自身も病人の治療につとめられた。いっぽうで、これらの事業は、多くの資金を必要としたので、国家の財政は苦しくなった。

飛鳥時代と奈良時代

唐招堤寺の金堂内部の諸仏 向かって右より薬師如来立像、盧舎那仏坐像、千手観音立像 手前に立つのは向かって右が梵天立像、左が帝釈天立像(各像とも国宝、Mstyslav Chernov/Unframe/unframe.com)

 6世紀の飛鳥時代、百済を経て、仏教が日本にもたらされた。仏像や経典は、自然崇拝だった日本人の心を揺るがし、一部の貴族が仏教を受け入れ始めた。それは目に見え、手に触れ、言葉で理解できる始めての宗教であった。
 6世紀末、都に天然痘がはやった。用明天皇も感染した。病床に伏した天皇は平癒を祈って薬師如来(やくしにょらい)を信仰したため、仏教は始めて朝廷にも受け入れられた。
 推古天皇と摂政の聖徳太子は斑鳩(いかるが)の里(奈良県の西北部)に薬師如来を納める為に法隆寺(ほうりゅうじ)を建立した。(消失、再建されているが、世界最古の木造建築である)仏教をあつく信仰する太子は崇仏派の蘇我氏と共に、飛鳥地方を中心に次々に寺院を建立した。この仏教文化を飛鳥文化(あすかぶんか)と呼ぶ。釈迦三尊像、百済観音像などが代表作である。
 7世紀初頭、朝廷は遣唐使を十数回にわたり派遣した。才能と意欲のある留学生が選ばれ、海をわたり、唐の制度や文化を日本に伝えた。唐の高僧鑑真(がんじん)は日本に戒律を伝えようとして日本に向かったが5度も難破し、日本にたどりついた時には盲目になっていた。
 奈良時代には仏教の広まりとともに、朝廷や貴族の保護のもと多くのお寺が建てられた。聖武天皇の頃の年号よりこの頃のことを天平文化という。
 この時代を代表する寺として、東大寺や薬師寺、艦真のために建てた唐招堤寺(とうしょうだいじ)がある。仏像では東大寺の日光・月光菩薩像、興福寺の阿修羅像など仏教美術の傑作がある。752年に完成した高さ15メートルの東大寺の大仏は世界最大の金銅仏である。
 文学では『万葉集』が編纂され、古代から奈良時代までの4500首の和歌が身分の隔てなく採録されている。作者は天皇・貴族から名もなき農民・防人まで多彩である。詩歌集に女性や庶民の作品まで採られているのは、世界でも例がない。飛鳥時代には、多くの優れた作者が生まれ、優れた作品を多数残した。

第4節  律令国家の展開

 8世紀の中頃から、貴族と僧侶の争いが激しくなった。桓武天皇は、寺院などの仏教勢力の影響が強い奈良の地をはなれ、都を移すことで政治を立て直そうと決意した。新しい都は、794年に、交通の便利な今の京都につくられた。
 これが平安京で、明治天皇の東京遷都まで約1000年間、日本の都となった。そのうち、鎌倉に幕府が開かれるまでの約400年間を平安時代とよぶ。
 桓武天皇は、農民にとって負担となっていた兵役の義務を廃し、郡司の子弟による軍隊をつくった。また地方政治の乱れを監視する役人をおき、郡司らの不正を取り締まった。また班田収受の制度をやめ、労役で治める税を半減させ、農民の負担を軽くした。
 こうして律令国家が立て直され、天皇の権威が確立し、皇位の継承が安定してくると、天皇が直接、政治の場で意見を示す必要が少なくなった。一方、藤原氏は、巧みに他の貴族を退け、一族の娘を天皇の皇后としてその皇子を天皇に立てることで、天皇の外戚となり、勢力をのばした。
 藤原氏は、天皇が幼い場合は、摂政として、また成人されたのちは関白として、国政の実権を握るようになった。これを摂関政治(せっかんせいじ)と呼ぶ。その最盛期は、藤原道長とその子の頼道のころで、藤原氏は朝廷の高い地位を一族でひとりじめにした。
 10世紀になると、朝廷は国司らに地方政治をまかせ、公領からの税の確保を求めるほかは干渉しなくなった。有力者らは、みずから土地を開墾し、藤原氏を始めとする中央の貴族や寺社に寄進した。
 この様な土地は朝廷や国司によって税を免除される私有地として承認された。有力者らはその土地の管理者となって力をたくわえていった。管理のための事務所や倉庫は「荘」と呼ばれ、これら私有地を「荘園」(しょうえん)と呼んだ。

日本独自の優雅で繊細な「国風文化」

国風文化の象徴・平等院鳳凰堂(663highland、 From Wikimedia Commons)

 奈良時代の仏教は国家の保護を受けて栄えた。が、経典の研究が中心となり、やがて停滞し、都が平安京に移ると、寺院は奈良に留め置かれた。このような時期に最澄と空海の2人の学僧が唐にわたり、仏教の新たな展開を学び、日本の仏教に新機軸をもたらした。
 最澄(伝教大師でんぎょうだいし)は比叡山に延暦寺を開いて天台宗を広め、空海(弘法大師こうぼうだいし)は高野山に金剛峯寺を開いて真言宗を広めた。
 学僧たちは密教の奥義を求めて、山中でひたすら修行に励み、国家と万民の平安を祈った。しかし、やがて貴族の間に信者がひろがると、加持祈祷に重きをおき、寺院建立などでも支援を受けるようになった。
 894年、右大臣菅原道真の建言により遣唐使が廃止されると、唐風文化を基礎としつつ、日本独自の優雅で繊細な文化が発達した。これを「国風文化」(こくふうぶんか)とよぶ。
 貴族たちは、自然を模した庭園のある寝殿造りの屋敷に住み、服装も男性は束帯、女性は十二単などに変わった。絵画は自然をモチーフにした大和絵が襖や屏風を飾り、その大和絵から物語のある絵巻物が生まれた。鳥羽僧正の『鳥獣戯画』の軽妙な筆致は漫画の原型といえる。
 とりわけ重要なのは、仮名文字(かなもじ)の発達である。特に平仮名は貴族の女性の間に広まり、仮名文字を使った文学が生まれた。
 清少納言はしなやかな観察力で宮殿の暮らしや季節の移ろいをつづった随筆『枕草子』をあらわし、紫式部は貴族の恋を題材に世界最古の長編小説『源氏物語』を書いた。和歌では醍醐天皇の勅命で、紀貫之らが『古今和歌集』を編纂し、小野小町や在原業平など六歌仙といわれる歌人の名作が収録された。
 10世紀になると、庶民の間には社会不安から末法思想が広まった。都では放火・盗賊が横行し、比叡山の僧兵らが暴れた。地方では武士が台頭し、天災が立てつづけにおこった。
 それにこたえるように比叡山の天台宗の源信らが登場し、念仏をとなえて阿弥陀仏に帰依すれば、極楽浄土に生まれ変わるという浄土教を説いた。
 貴族たちも極楽浄土にあこがれ、阿弥陀堂を建てて、阿弥陀仏の像を奉納した。藤原頼道の平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう- 京都) や中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう – 岩手)がその代表である。


《資料》 古事記と日本書紀

 古事記は、「古(いにしえ)の事をしるした書物」の意味だが、日本書紀の「紀」は、帝王の事績を年代順につづった記録を意味する。
 両書はほぼ同じ時期に完成していることより、同じように思われがちだが、文体が異なり、神話の構成などもかなり違っている。
 『古事記』によれば、天武天皇は歴史は国家の基礎であるとの考えを示し、歴史書の編纂を命じたという。『日本書紀』は日本国の由来を流暢な漢文で記し、対外意識と独立心の高まりを感じさせる。
 この2つの歴史書を合わせて『記紀』と呼ぶ。『記紀』は天皇が日本の国を治めるいわれを述べたもので、その中で語られる神話・伝承からは、当時の人々の信仰や政治の理想についての考え方を知ることが出来る貴重な書物である。


《資料》遷都の年代とその位置(127年の間に6回も遷都した)

667年=近江大津宮 琵琶湖の南に最初に開かれた天皇の居場所・天智天皇
672年=飛鳥宮 奈良の飛鳥の里・天武天皇
694年=藤原宮 飛鳥宮の近く・持統天皇
710年=平城京 今の奈良市・元明天皇
784年=長岡京 現在の京都の南・桓武天皇
794年=平安京 現在の京都市・桓武天皇、1868年(明治元年)まで千年以上続いた。