中島宏著『クリスト・レイ』第15話

 まだ、挫折というものを本格的に経験したことのないこの若者には、そのことがごく自然な形で信じられたのであろう。それだけに、彼は常に努力を怠らなかった。そこがアヤも言う、集中力のすごさに繋がるのかもしれなかったが、そうなるとこれは、持って生まれた才能とも呼ぶべきものなのであろう。
いずれにしても、このような状況になるとは、マルコス自身も考えていなかったし、彼を最初から教えてきたアヤも、まさかここまでこのブラジル人の青年が伸びるとは想像もしていなかった。教科書だけでは間に合わないという感じになってきたので、アヤは日本から持ってきていた様々な本をマルコスに貸し与えて、さらに勉強させた。
それまでの教科書に比べるとそれらはもっと範囲が広く、様々な話題が掲載されていて面白かったが、その分、内容も複雑になり、さらなる日本語力を強いられるということになっていった。難しさのレベルも上がって行ったが、マルコスにとってそれは、新たな挑戦でもあった。
それによって彼の日本語の学力も一段と伸びていく結果になったのだが、それは誰にでも出来るというものではなかった。そこに彼の能力の特殊性があったと言っていい。
もし、あのエンリッケが冗談半分にしろ、マルコスを誘っていなかったら、おそらく彼がその生涯において日本語を話すというようなことはなかったであろう。
人間の邂逅とか運命というものは、どこでどう繋がっていくのかまったく予期できないものである。自分で希望して、その目的に向かって自らが動いたのではなく、それは偶然のような形で向こうからやって来たようなものであった。
もっとも、彼が興味を示して勉強を始めてからは、そこに明快な意志と目標が生まれていったのは間違いないことではあったが。とにかく、ほんのちょっとした、言ってみれば、遊びのようなきっかけから、それまではまったくの未知であった世界にマルコスが入り込んでいったのは、あるいは偶然のいたずらということであったのかもしれない。
イタリア系のブラジル人の青年が、その存在すらよく知られていないような片田舎で、流暢な日本語を話すようになるなどということは、普通、常識ではあり得ないであろう。
それが実現したというところに、ブラジルという、移民で成り立った国の面白さがあり、得体の知れないような、不思議な可能性を秘めた国のユニークさがあるといえそうである。  日本で生まれたサクラの花が、ブラジルに来て、イッペーの花に転化されてしまうことも、こういう世界では起こり得ることなのである。 クリスト レイ 教会  日本語学校へ通いながらも、マルコスはそこに隣り合わせのようにして建ちつつある立派な教会のことを忘れることはなかった。ただ、日本語の方に自分でも思わぬほどに傾注していったために、しばらくはこの教会のことも忘れがちになっていた。
が、無視していたわけではない。無視するには、この教会はあまりにも目立ち過ぎた。
場所がこのように奥まった所に、隠れるようにして建っているから、この近辺のブラジル人たちは、ほとんど誰もその存在を知らないが、もしこれが、たとえばリンスのような中規模ほどの町の中心地に建ててあったとしたら、まず、大きな注目を浴びることは間違いない。