《記者コラム》ブラジルで「伝統」になった米国南部連合の旗

「虐げられた人々」が集まるブラジルの不思議

 世界中からアメリカに移住したい人は多いだろうが、その逆は少ない。歴史的に見ると、ブラジルは数少ないそんな国の一つだ。「どうして世界で最も豊かな米国から、危なくて貧乏そうなブラジルへ?」と不思議がる人もいるだろうが、そこには歴史的理由がある。
 ブラジルというのは不思議な国で、歴史的に世界中から「虐げられた人々」「社会の大変動で居場所を失った人々」が集まって来る。
 イタリアからは産業革命で仕事を失った人や大水害などの自然災害から逃れてきた人、オスマントルコ帝国の少数民族差別や虐殺から逃れてきたアルメニア人(サンパウロ市メトロの駅名になっている)、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人やオーストリア人、内戦から逃れてきたアンゴラ人、第2次大戦のロシア侵攻から逃れてきたラトビア移民、チェルノブイリ原発事故後にやってきたウクライナ移民、最近でも、独裁政治から逃れてきたベネズエラ難民、大地震後に来たハイチ難民など枚挙にいとまがない。
 アメリカから来た移民も、そうだ。
 北米最大の内戦・南北戦争(1861―1865年)で敗北した「アメリカ連合国(Confederate States of America、CSA)」側の人々が、1865~85年頃までの間に3~5万人ほどもやってきた。彼らの多くは、サンパウロ州カンピーナス周辺のアメリカーナ、サンタバルバラ・ドオエステに入った。前者の市名の語源になったのは、名前の通り「Vila dos americanos」(アメリカ人村)だ。

エスタード紙7月14日付電子版「米国の人種差別は、ブラジルの伝統」。下部の写真は連合国フェスタの様子

 我々が通常、米国といっているのは「アメリカ合衆国(United States of America、USA)」のことだが、ブラジルに移住してきたのは「アメリカ連合国」として南北戦争で負けた南部諸州の人々だ。
 ちなみに日本人移民の大半は相続する土地がない農家の二・三男、明治以降の産業改革で仕事を失った職人や手工業者などが多かったが、一世紀前の移住初期の頃には明治維新で追いやられた旧幕府側勢力の武士階級や、琉球処分で王国としての身分を奪われた沖縄県の人々なども一般移民に混ざって来ていた。境遇的にどこか似ている気がする。
 やはり「虐げられた人々」「社会の大変動で居場所を失った人々」という感が強い。

ドン・ペドロ二世が導入した南部連合国移民

1863年―1865年の南部連合国軍の海軍旗(William Porcher Miles (1822-1899)/Public domain)

 アメリカ連合国移民の子孫は、150年経った今でもブラジルで連合国旗を掲げて「ブラジル―アメリカ合衆国・連合国フェスタ」(Festa Confederada Brasil-Estados Unidos)を毎年4月に開催している。もちろん、思想的なものはなく(おそらく)、あくまでも「移民の伝統行事」として開催され、多くの観光客を集めている。
 日系社会には保守的な意見の持ち主が多いことから、「ブラジルには明治の日本が残っている」という大宅壮一に代表されるような日本の人の声をよく聞く。だが、アメリカ南部の人にとっても、そうかもしれない。
 フェスタ会場は、サンタバルバラ・ドエステ郊外にあるアメリカ人墓地(Cemitério dos Americanos)だ。移民一世の霊を弔うために、墓地で米国南部の伝統的な装束に身を包んだ若者たちが、当時のフォークダンスなどを踊るのが祭りの見せ場となっているという。
 アメリカ人移民が導入されたこの当時、ブラジルは帝国でドン・ペドロ二世の治世だった。米国南部では棉栽培が盛んで、英国や欧州に盛んに輸出されていた。そこでドン・ペドロ二世は、米国南部で棉生産の経験を持つ人材に補助金を出すことで移住促進し、コーヒーに次ぐ新産業を育てようとしたのだ。
 その仲介をしたのはドン・ペドロ二世も加入していたフリーメイソンのメンバーで、連合国側ではロバート・エドワード・リーが斡旋を手伝ったという。アメリカ連合軍(南軍)司令官を務めた、あの人物だ。物量や兵員において圧倒的に強大だった北軍を大いに苦しめ、最終的には敗北こそしたが、「アメリカ史上屈指の名将」とも一部では言われる軍人だった。
 アメリカ人移民らは、南北戦争で徹底的にインフラや道路が破壊しつくされた南部が復興するには、何十年もかかるに違いないと考えた。また北部のアメリカ人からの差別や迫害に怯えて生きるより、奴隷制度が残っており、地価が安いブラジルで心機一転、大農場を始めようと考えた。

連合の範囲。濃い緑はアメリカ連合国(CSA)に加わった諸州、薄い緑は州内の一部勢力が南部につき、CSAがその一部と主張したが実効支配はできなかった州(ミズーリとケンタッキー)および準州(インディアン準州およびアリゾナ準州)、途中でCSAから脱退した州(ウェストバージニア)(Blank US Map.svg: Theshibbolethderivative work: Nkocharh/CC BY-SA)

 ブラジルが奴隷解放をしたのは世界で一番遅く、1888年だった。つまり北米では廃止された奴隷制度が、ブラジルでは存続していたことが、アメリカ人移民には魅力に映ったようだ。
 カンピーナス州立大学の調査によれば、この時代、この地域のアメリカ人移民のたった4家族だけで66人もの奴隷を所有していたことが判明している。
 最初にサンタバルバラ・ドエステに入植したアメリカ人として知られているのは、アラバマ州議会上院議員を務めていた南軍大佐ウイリアム・ハッチソン・ノリス(William Hutchinson Norris)で、彼が移民斡旋所を作って後続をドンドン入れたので同地域は「コロニア・ノリス」と呼ばれた。
 アメリカから最新の農業術を持った移民が続々と入り、メロンやクルミ栽培を広めた。食文化としても、南部の代表料理の一つと言われる表面を格子状に焼いたパイ(torta xadrez)、フライドチキン(frango frito)を広めた。

アメリカ人墓地と絞首刑された黒人奴隷

 連合軍フェスタが開催されているアメリカ人墓地には、悲しい歴史が残されている(https://pt.wikipedia.org/wiki/Cemitério_do_Campo)。

アメリカ人墓地の礼拝堂(Felipe Attílio/CC BY-SA)

 ここは元々、南軍大佐アサ・トンプソン・オリバーの農園だった。南北戦争終結後に移住したが、戦争と終戦後のドタバタの中で財産を売り払ってブラジルまで来た疲れが出て、妻ベアトリスは1867年7月13日に亡くなってしまった。南部人の習慣で、動物に荒らされないように自分の土地に妻を埋葬した。そのすぐあと、二人の娘も結核で亡くなり、母の隣に埋められた。
 アメリカ人移民が到着した当時、その地域にはカトリック教会の墓地しかなく、北米に多いプロテスタント信者を埋葬することは許されていなかった。実際、別のアメリカ人移民、ヘンリーバンクストンの子供が亡くなり、村の共同墓地に埋葬したかったが、バプテスマ(入信儀礼)を受けていなかったので教会から許可が得られなかった。
 このニュースは移民コミュニティに衝撃を与え、他の選択肢がなく、オリバーを訪ねて彼の家族と一緒に埋葬してくれないかと頼み、彼は承知した。さらに、南部人向けに1ヘクタールの土地を割り当てた。それが現在のアメリカ人墓地になっているという。
 しかし、1873年、オリバーは自分の畑から奴隷がジャガイモを盗んでいるのを見つけたので、奴隷を驚かせて二度としないようにしようとした。ところが逆襲され、畑を掘っていた鍬でオリバーを殴り殺した。
 同じ南部人の若い3人は復讐を誓い、故郷でやってきたことと同じことをブラジルでもやった。その奴隷を絞首刑に処し、オリバーの農場の木からぶら下げたのだ。この事実に関して、3人は絶対に口外しないという密約を交わしたために、長いこと明らかにされなかった。

人種差別の象徴、それとも移民の伝統?

 このアメリカ人移民がもたらした大きな影響は、パブテスト教会を最初に持ち込んだことだ。米国の宗教人口比率では新教プロテスタントが最も多いが、その中でも最も多いのがバプテストと言われる。アメリカの保守派を代表する勢力で、殊に南部パプテスト連盟は、米国の非カトリック教派団体だ。
 元々世界最大のカトリック大国だったブラジルだが、現在はプロテスタントが凄い勢いで勢力を伸ばしており、10~15年でカトリック信者数を超すとも言われている。その最初の一歩を刻んだのが、彼等だった。
 米国においては保守的と言われた南部人だったが、帝政時代のブラジルにおいてむしろ先進的で、まったく一般的でなかった女児教育をアメリカ人移民たちは始めた。
 そんなアメリカ人移民の女性子孫からは、有名人も結構出ている。「ブラジル・ロックの女王」とも言われるリッタ・リーしかり。社会福祉活動家ペロラ・エリス・バイトンもその一人で、サンパウロ市セントロには彼女の名を冠した女性専門病院もある。
 ジョージア州知事時代のジミー・カーター氏(のちの米国大統領)は1972年、来伯してサンタバルバラ・ドエステを訪問し、アメリカ人墓地を訪れている(https://pt.wikipedia.org/wiki/Ficheiro:Confedarado.jpg)。
 このサンタバルバラ・ドエステでは、米国でジョルジ・フロイド氏が警官によって殺され、BLMという黒人差別見直し運動が盛り上がってきて以降、「連合国フェスタ」開催を見直す動きが出てきていると7月14日付エスタード紙が報じている。
 今年の同フェスタは、パンデミックのために中止されたが、来年に向けて地元の「黒人のための平等連合」会長のクラウジア・モンテイロさんは、南部連合国旗を使わないように運動をしている。彼女は48年間の人生の40年間をこの町で過ごしてきたが、以前は「この町独特の祭り」としか見てこなかった。

2015年6月、米国サウスカロナイラ州の黒人教会で起きた大量殺人事件の犯人は、片手に連合国旗、もう片手にピストルを持つ写真をSNSにあげていた(https://www1.folha.uol.com.br/mundo/2017/01/1848707-atirador-que-matou-nove-em-igreja-nos-eua-e-condenado-a-morte.shtml)

 でも、26歳の白人至上主義者のディラン・ルーフ被告が2015年6月、米国サウスカロナイラ州の黒人教会で9人もの大量殺人事件を起こす前、連合国旗と銃を持った写真をSNSに挙げたのを見て、仲間と共に、地元の祭りでもその旗の掲揚を辞めるように運動しはじめた。
 同事件を契機に米サウスカロライナ州では同旗掲揚が禁止になった。それを聞いて、ブラジルではこの旗を前面に出したフェスタに公的資金援助が出ていることに疑問を持ったという。
 同エスタード記事よれば、その旗に関して黒人差別反対活動家は「人種差別だ」と主張し、祭り主催者は「家族の伝統だ」と返している。
 一方、今回のBLM運動の結果、米ヴァージニア州政府は、ロバート・エドワード・リー軍司令官の像を撤去することを決めて発表した。ブラジルにアメリカ人移民を送り込んだ人物も、《アメリカでは多くの人が、リーをアメリカの奴隷制度と人種的抑圧の歴史の象徴とみなしている》(https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-53004323)今となっては形無しだ。
 歴史が根本的な処からひっくり返され、現代の目から見直す再評価が始まっている。米国がその影響力を持って行動を広めると、ブラジルを始め世界に影響が及ぼされる。「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないが、今回の件はその典型だ。

「失われた大儀」というイデオロギー論争

 だが、歴史には、必ず作用と反作用がある。今回のBLMや銅像撤去運動に対して、米南部保守勢力からどんな反作用が起きるのか。
 トランプ以降の北米を見ていて感じるのは、「連合国の失われた大義」を背景とした南部白人勢力的なイデオロギーの復興だ。移民大国とか多民族国家である現実を誇るのではなく、それ以前の、アメリカができた頃の白人中心の国家の在り方を振り返るようなナショナリズムに繋がっている感じがする。
 「失われた大儀」は、奴隷制廃止の是非を決めるために南北戦争が起きたのではないというイデオロギー論争だ。戦争前の南部の美徳を持ち上げ、南部の生活様式を保存するための戦い、または圧倒的な「北部の侵略」から南部州の権限を守るための戦いと見なしている。
 ちなみに、マーガレット・ミッチェルの長編時代小説『風と共に去りぬ』は、南北戦争という「風」と共に、当時栄華を誇ったアメリカ南部白人たちの貴族文化社会が「去った」事を意味する。それを失うまいと思った人たちが、おそらくブラジルへ移住したのだろう。その映画は第12回アカデミー賞で9部門も受賞したが、現代の眼で再評価されて、上映が見直されている。
 「失われた大儀」は負けた側の言い分だ。それがブラジルでは「家族の伝統」となった。そういう部分もあるかもしれないが、「歴史は勝者が書き直すもの」であることも冷酷な真実だ。
 今回、新型コロナのパンデミックにより、世界経済が大恐慌に陥る中で、この歴史見直し運動が同時に勃発してきている。ブラジルもいろいろな面でその直撃を受けていることを、ひしひしと感じる。(深)