俳誌『蜂鳥』34年の歴史に幕=遺志継いだ久子さんも高齢で=コロナ収束後に句会再開予定

最後の発刊となった349号の表紙

最後の発刊となった349号の表紙

 伝統ある俳誌『蜂鳥』(富重久子代表)が、クアレンテナ直前の今年2月に刊行された349号をもって終刊となっていた。富重かずま(山口県、本名=計馬)さんが創刊し、1986年3月から34年続く歴史の幕を下ろした。終刊について選者の久子さんほか、編集を手伝っていた串間いつえさん、田中美智子さんへ電話で取材を行った。

 以前は5人いた編集者も高齢や病気などを理由に参加できなくなり、最終的に2人で編集を行っていたという。最終号では昨年5・6月分の作品が掲載された。
 田中さんは2002年8月頃から蜂鳥に参加し「吟行で色んな所へ行ったのが思い出」と振り返る。約20年参加しているという串間さんは「かずま先生は上品な人」と創刊者のかずまさんについて語り、「良い句に会えたらとても嬉しそうにしていました」と懐かしそうに語った。
 終刊についての一番の要因は「高齢」のためだと串間さん、田中さんは説明する。久子さんは当時91歳という高齢に加え、腰痛があり文字のタイプが大変な作業となっていた。「数年前から久子さんへ説得していた」と経緯を語る。
 久子さんは「若い人に継いでもらおう」と串間さんや田中さんに打診したものの「荷が重い」と首を縦に振る人が居なかったという。串間さんは「選者が出来るほどの腕を持つ人もいましたが、その人も大変高齢者で…」と両者への取材から後継者探しの難しさがうかがえた。

30周年の祝賀会の様子(前列左から4人目が久子さん)

30周年の祝賀会の様子(前列左から4人目が久子さん)

 創刊者の富重かずまさんは1953年(当時33歳)に「菜殻火(ながらび)」の主宰である野見山朱鳥(のみやまあすか)に師事し、59年に渡伯した。83年に日伯毎日新聞の俳壇選者に抜擢されるも、コロニア内の保守的な一派からは「『菜殻火(ながらび)』は俳句にあらず」と認められず、誰も俳壇に投稿しないという反発をうけたという。
 その反発に負けずに選者として新人発掘や育成に力を注いだ結果、俳壇は盛況となり、育った俳人が発表する場として86年に同誌創刊。かねてより「一誌持つことが許されるなら」と心に決めていた「蜂鳥」と名づけ「どうか誌名蜂鳥にあやかって、自在な飛翔を遂げて生きたい」と創刊号に綴っている。
 「蜂鳥」発刊20周年の直前である2005年12月にかずまさんが肺炎のため85歳で亡くなった後は、妻の久子さんが遺志を継ぎ、休むことなく発刊し続けた。
 残念ながら俳誌は終刊となったもののクアレンテナ開始直前まで「泉句会」「蜂鳥会」「せせらぎ句会」は続き、月に3、4回ほど久子さん宅に十数人で集まり句を詠み合う。「大きなサーラもあるので新年・忘年会などは皆で集まります」と楽しげに語る。
 コロナ収束後、「落着いたら再開したいと考えています。句会はいつでも、どなたでも歓迎しているんですよ」と分け隔てなく迎える姿勢は変わっていない。
 日系社会の長く続いてきた俳誌終刊に田中さんは「自分の子供は日本語を話す事はできるが読み書きが出来ない。他の日本語文芸誌が少しでも続いて欲しい」と広く日本語による文芸活動の存続を願った。