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知っておきたい日本の歴史=徳力啓三=(9)

 日本人が広く国外に目を向けるようになる一方、国内では群雄割拠する有力な戦国大名が、我れ先にと京都にのぼり、朝廷の信任によって全国の統治者になろうと競い合っていた。
 その中で尾張(愛知県)の織田信長(1534-1582)が斬新な戦略と京都に近い地の利を生かして、頭角をあらわした。1560 年、駿河(静岡県)の今川義元を桶狭間で破った信長は、やがて京都にのぼると足利義昭を将軍に擁立して全国統一に乗り出した。
 その後、信長は義昭と対立するようになり、1573 年、義昭を京都から追放した。ここに、室町幕府は230年の歴史の幕をとじた。信長は敵方の大名についた比叡山延暦寺を全山焼き討ちにし、浄土真宗の一向一揆も降伏させた。これによって、その後、仏教勢力の政治への発言力が弱まった。
 信長は 1575年、当代最強と言われた甲斐(山梨県)の武田勝頼の騎馬軍団を鉄砲隊で打ち破った(長篠の戦い)。その翌年、信長は京都に近い琵琶湖畔に壮大な安土城を築いた。信長は政治に発言する仏教勢力をおさえる一方で、万里の波濤を越えてやってきたキリシタン宣教師の勇気を称えた。
 信長は、楽市楽座の政策をとって城下の商工業に自由な営業を認め、流通の妨げになる関所を廃止した。このように信長は旧来の政治勢力や社会制度を打破し、全国統一への道を切り開いた。しかし、1582年、家臣の明智光秀の謀反にあい、京都の本能寺で自害した(本能寺の変)。

豊臣秀吉肖像、一部(高台寺所蔵、 狩野光信 / Public domain)

 信長自害のあと、全国統一の事業を受け継いだのは豊臣秀吉(1537-1598) であった。備中(岡山県)高松城で対陣していた秀吉は、本能寺の変を知るや、直ちに毛利氏と和を結び、いち早く軍を引き返して、京都の天王山で明智光秀を討った。1583年に、秀吉は信長の安土城をモデルにした壮大な大阪城の築城に着手し、全国を統治しょうとする意志を世にしめした。
 1585年には秀吉は関白に任ぜられ、その翌年には、朝廷より「豊臣」の姓を賜った。秀吉は天皇の名により全国の大名に、停戦して秀吉に服属することを命令し、(惣無事令)諸大名を次々と平定していった。1590年、秀吉に歯向かう大名がいなくなって戦火は止み、秀吉の全国統一事業は完成した。翌年、関白を養子秀次に譲り、太閤となった。

《資料》秀吉の天下統一は8年間
秀吉の天下統一は僅か8年の間に成し遂げられた。1582年毛利氏との和睦、同年山崎の合戦で明智光秀を破る。1584年小牧 ・ 長久手の戦いで徳川家康と決着がつかず和睦。1585年四国の長宗我部元親を平定。1587年には九州の島津義久を平定した。1590年には小田原の北条氏政を攻め滅ぼし、同年、最後に奥州の伊達政宗を平定した。

 秀吉は、1582年から各大名に命じて米の収穫高を正確に調べさせ、土地の等級と石高を示す検地帳を作成した。これを太閤検地という。検地によって荘園領主だった中央貴族などの権利は奪われ、荘園制度は崩壊した。
 農民は土地私有権を認められるかわりに、その領主たる大名に年貢をおさめることとなった。1558年、秀吉は刀狩令を発して農民や寺院から刀 ・ 弓・槍・鉄砲などを没収した。農民が耕作に専念することによって、子々孫々の安泰を保障し、領内の自衛 ・ 治安と国防は武士の役割とした(兵農分離)。
 秀吉はキリスト教の保護者であったが、1587年、突如としてバテレン追放令を発し、キリシタンの禁教政策に転換した。しかし、貿易による利益を重視して、南蛮商人の入港は引き続き認めたため、禁教政策は不徹底なものになり、バテレンの追放も実現しなかった。秀吉は庶民の信仰までは禁じなかったので、キリシタン信徒はその後も増え続けた。
 フィリピンを拠点にしていたスペインの宣教師たちは、キリスト教を広める為、南アメリカやアジアとおなじように、武力によって中国や日本を征服する計画を立てていたといわれる。
 全国を統一した秀吉は明国を征服して都を移し、インドまでも支配するという壮大な野望を抱いた。1592年15万人の大軍を朝鮮に送った(朝鮮出兵)。加藤清正や小西行長などの武将にひきいられた秀吉の軍勢は、たちまち首都の漢城(現在のソウル)を落とし、朝鮮北部にまで進んだ。しかし、朝鮮側の李舜臣が率いる水軍の活躍、明国からの援軍などで敗勢となり、明国との和平交渉のために兵を引いた(文禄の役)。
 1597年、明国との交渉が決裂し、秀吉は再び約14万人の大軍を派遣した。明国の反撃で、今度は朝鮮南部から先に進むことができず、翌年、秀吉が死去したため撤兵した(慶長の役)。2度にわたる戦いによって、朝鮮の国土や人々の生活は荒廃した。
 また、この出兵に莫大な費用と兵力を費やした豊臣家の支配はゆらいだ。このとき徳川家康は、朝鮮出兵には賛成し、九州まで出陣したが、渡海しなかった。
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《資料》 秀吉のバテレン追放令(1587年)
 朝鮮出兵のために博多に来ていた秀吉は、随行の僧侶たちよりバテレンやキリシタン大名の所業についての訴えを聞き、平戸より訪ねてきた宣教師コエリョに使者を送り、次のような詰問をした。
(1)なぜ領民を強引に改宗させるのか、 (2)なぜ神社仏閣を破壊するのか、(3)なぜ牛馬の肉を食うのか、(4)なぜポルトガル人は多くの日本人を奴隷として買って連れ帰るのか。
 コエリョは、秀吉を納得させる答えを出せませんでした。秀吉は側近の大名達のまえで、これまでのキリシタン保護の姿勢を一転して「バテレンの説く掟は悪魔のものだ。一切の善を破壊するものだ」と激しく批判し、「バテレン追放令」を布告しました。一向一揆のような権力に反抗する宗教勢力の台頭を恐れていたからである。

《資料》 秀吉の刀狩令(1588年)
(1)―各地の百姓が刀・弓・槍・鉄砲その他の武器をもつことをかたく禁ずる。そのわけは百姓が武器を持っていると、年貢や税を出ししぶり、おのずと一揆をくわだてたりする。また大名から土地を与えられている家臣といざこざが起き、処罰されるとその土地の生産がなくなる。そこで、大名や代官は、以上のような武器を全て集め、差し出しなさい。
(1)―取り集めた刀や短刀などは無駄にせず、京都の方広寺の建築用の釘やかすがいに使う。そうすれば、現世はもちろんあの世まで、百姓が助かることになる。
(1)―百姓は、農具だけ持ちひたすら農業に励め。そうすれば子孫の末まで長く暮らしを保つことができる。国内がやすらかとなり、人々が幸せになる。

《補講》 宣教師の見た日本人(1588年)

 16世紀、日本へやってきたキリスト教の宣教師たちの目には、日本人はどのように映ったのでしょうか。極東の島国に住む日本人に「文明化した誇り高き民族」を見出しました。何よりも下層の日本人でさえ、盗みがないこと、読み書きが出来ることに強い印象をうけたようです。

フランシスコ・ザビエル像。17世紀初期に描かれた。神戸市立博物館所蔵。『中公バックス 日本の歴史 別巻2 図録 鎌倉から戦国』より(Kobe City Museum / Public domain)

 神父ザビエルは、ゴア(インド)に送った書簡にこう書いています。「日本人は私が遭遇した国民の中で最も傑出している。異教徒の中で日本人にまさるものはあるまいと考える。彼らは相対的に良い素質を有し、悪意がなく、交わってすこぶる感じがよい」「日本人はたいてい貧乏である。しかし武士たると平民たるを問わず貧乏を恥辱と思っている者はひとりもいない」
 布教長トルレスは、日本人の暮らしについて以下のように書いています。「この国の豊かさはスペイン、フランス、イタリアをしのいでいる。キリスト教国にある一切のものが、この国にはある。彼らの長所を数えてゆけば、紙とインクが足りなくなります」
 オルガンチーノ神父は、日本人を知るにつれ、更に高い評価をしています。「私達ヨーロッパ人は互いに賢明に見えるが、日本人と比較すると、はなはだ野蛮であると思う。私は本当のところ、毎日日本人から教えられていることを白状します。私には全世界でこれほど天賦の才能を持つ国民はないと思います」
 日本史を書き残したフロイス神父は、日本と西洋はまったく正反対である点を列挙し「日本人は罪人を処罰するのに平然と斬首するのに、家畜を殺すと仰天する」と首をかしげています。彼らにとって日本は矢張り「不思議の国」であり、「不思議な民族」だったのです。

 戦国時代を実力で勝ち抜いた戦国大名たちは、その権勢を誇るように雄大な文化を生んだ。これらの文化は信長の安土城と秀吉の伏見城(桃山城)にちなんで安土桃山文化、または単に桃山文化とよび、信長 ・ 秀吉が活躍した時代を安土桃山時代とよぶ。
 信長、秀吉らが築いた城には壮麗な天守閣があった。天守閣は司令塔 ・ 展望台とされるが、権勢を象徴する装飾の性格が強い。信長の安土城の内装は金箔がほどこされ、「殿中ことごとく金なり」と称えられた。金箔の地に濃彩の絢爛豪華な襖絵や屏風絵を描いたのは狩野永徳ら狩野派の絵師たちであった。秀吉が建てた大阪城の障壁画も彼らの作品である。

千利休像 (長谷川等伯画、春屋宗園賛、painted by 長谷川等伯, calligraphy by 春屋宗園 / Public domain)

 堺の茶人で茶の湯を完成した千利休は、こうした華美な趣味に背をむけるように、狭い茶室で静かにたしなむ侘び茶を始めた。茶室の内装はすべて土壁で、床の間には竹の花入れをかけ、茶碗は京都の楽焼を好んだ。利休の確立した茶道は日本人の間に「侘び」という美意識をはぐくんだ。また、室町時代に生まれた華道は、初代池坊専好によってこの時期に完成された。
 庶民の間にもこの世を楽しむ風潮が広まった。小唄が流行し、三味線の伴奏で浄瑠璃がうたわれ、これにあわせて人形浄瑠璃が生まれた。出雲大社の巫女としょうする出雲の阿国が始めたかぶき踊りは、江戸期に確立する歌舞伎の源流となった。衣服は活動的な小袖が一般的になり、麻にかわって木綿の衣料が普及し始めた。木綿は着心地がさっぱりして丈夫な上、色柄を染められるという特性があった。
 南蛮貿易や宣教師の布教活動が盛んになって、天文学・医学・航海術が日本に伝わり、活版印刷によって『聖書』や『イソップ物語』などが出版された。南蛮人や南蛮風俗をテーマにした屏風絵が描かれ、衣服・工芸・食文化にも南蛮趣味が広がった。

日本人制作の現存最古の地球儀(渋川春海作、1695年、Momotarou2012 / CC BY-SA )

 南米原産のタバコの移入によって喫煙の風習も始まり、トランプ遊びも広まった。このほか、カステラ、パン、マント、ジュバンなどさまざまな分野で南蛮語が新しい日本語となった。こうして西洋人が日本に伝えた異国の情緒ある文化を南蛮文化とよぶ。
 南蛮貿易で巨利を得た豪商が堺や博多などにあらわれ、南蛮文化を支え、広げた。その一部が日本社会に定着し、中国やインドのさらに向こうに広大な異文化があることを知らせた。それによって日本人は世界の見方を広げた。

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