中島宏著『クリスト・レイ』第28話

「面白いのはね、アヤ、今こうしてあなたのような日本人と話していますが、これも僕が日本語を覚えようとしたことから始まっていったことであって、もし、そういう機会がなかったら、今でも僕はあなたたち日本人を、どこか遠くから眺めるような感じで見てたでしょうね。第一、あのクリスト・レイの教会のことも、その存在すら知らないままでいたでしょう。世の中のことは、そういうものなのかもしれませんが、何かのきっかけがないと、そのまま何も知らずに過ぎていってしまうことが多いようですね」
「そうね、私たちの人生にはそんなことがいっぱいありそうね。ブラジル人のマルコスが、こうして日本語で私と会話しているというのも、何か奇遇というか、偶然のいたずらのような気もするわ。もし、あなたの友だちのエンリッケが誘っていなかったら、日本語を勉強することもなかったでしょうし、あなたがここにいることもなかったでしょうね。宗教心の強い人だったらこれを、神様の思し召しというふうに考えるのでしょうけど」
「ちょっとおかしいでしょう、その言い方は。だってアヤは、あのクリスト・レイ教会の信者であり、教会の仕事もしているのですから、宗教心が強いはずですし、神様のことも当然、考えるのではないですか。それが、自然のようにも思うのですが」
「うーん、その辺りがちょっと微妙なところね。確かに私は、クリスチャンであり、カトリック信者ですが、でもすべてを神に結び付けて考えるということはしないわ。いえ、それは神を敬わないということじゃなくて、その逆なの。私たちの人生のすべてを神に頼るとか、神のせいにするとかという考え方は、私は必ずしも正しいとは思わないの。
 もちろん、考え方というのは、個人個人ですべて違うから、いろいろな考え方があって当然だし、それでいいと思うけど、私にとっての神はすべてのものを超越したところに存在するものだから、感謝を捧げることはあっても、それを個人のレベルの問題にまで結び付けようというふうには考えないわ。少なくとも、私はそうです」
「なるほど、それも一つの考え方といえるでしょう。でも、そういうふうに考えるには、かなりの心の強さが必要ということになりませんか。普通は、そこまで自分を突き放すようにして考えることはしませんね。
 いや、僕はそれほど熱心なカトリック信者ではありませんし、宗教について深く考えるということもありませんが、アヤの言っていることは何とか分かるような気もします。まあ、あまり一般的な考え方ではないようですが」
「あるいは、この考え方は、あのクリスト・レイ教会に繋がっているといえるかもしれないわね。あの教会はちょっと一般的なものとは違うから」
「そういえば、すこし不思議に思ったのは、あのクリスト・レイ教会は、キリスト教のカトリックの流れを汲むものでしょう。それだったら、たとえばプロミッソンの町にもある、カトリックの教会と基本的には同じものだから、そちらの方へ行って一緒に宗教活動をしてもいいように思うのですが、どうしてそれをしないのですか」