知っておきたい日本の歴史=徳力啓三=(10)

大坂城炎上(1663年絵図、New York Public Library / Public domain)

第2節 江戸幕府の成立

 豊臣秀吉の次に最大の実力者になったのは徳川家康(1542―1616)であった。秀吉は大阪の近くに家康のような実力者がいることを警戒して、家康の所領を本拠地の三河地方から関東に移した。
 家康は、辺境の地の江戸を開拓して町づくりを進め、実力をたくわえた。秀吉の死後、家康は多くの有力武将を味方につけて1600年、秀吉の重臣だった石田三成を中心とした西国の対抗勢力を「天下分け目の決戦」となった関ガ原の戦いで破った。
 1603年、家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いた。1615年の夏、豊臣秀吉の遺児秀頼を大阪城に攻め滅ぼし(大阪夏の陣)、全国支配を完成させた。徳川氏が将軍として 15代にわたって統治し、大規模な戦乱のなかった約260年間を江戸時代という。

徳川家康公之像(鷹狩り姿、駿府城本丸跡)

 将軍直轄の天領と旗本の知行地を合わせると約700万石で、幕府は全国石高の四分の一を支配地とした。また、幕府は外交と貨幣の鋳造の権限を独占した。幕府の仕組みは、3代将軍徳川家光の頃には、役職制度が整い、将軍の独断専行を慎み、評定と呼ばれる合議での意見を尊重した政治を行った。
 大名は将軍より1万石以上の領地を与えられた武将をさし、将軍と主従関係を結んだ。幕府は全国に260あまりの大名を、徳川一族の親藩、昔から譜代の家臣である譜代大名、幕府が出来た後に徳川に臣従した外様大名の3つに分け、幕府に反抗しにくいように配置した。
 1615年には武家諸法度(ぶけしょはっと)を定め、許可なくお城を改築したり、大船を建造したり、大名同士の無断婚姻などを禁じた。大名に不始末があれば、領地没収や国替を行い、1年ごとに領地と江戸を往復する参勤交代の制度を定めた。大名が国許にいる間は、妻子は江戸屋敷に置いて人質にするなど巧みに統制した。
 将軍は江戸城の改築・修理や全国の河川の工事などを命じ、多大な負担を与えることで、財政力を殺ぐこともあった。が、日常の領地経営は、それぞれの大名に任せた。こうして、大名は領地と領民を自由に治めることにより、それぞれの地域で地方色豊かな文化が育った。

キリスト教禁令と島原の乱

 徳川家康は、貿易を奨励し、西日本の大名や長崎・堺の大商人などの貿易船に朱印状を与えて、海賊船ではないことを保証した。朱印船は安南(ベトナム)、ルソン(フィリピン)、シャム(タイ)など東南アジア各地に出かけて、活発な活動を展開した。現地に住みついた日本人による日本町の人口は、合わせて1万人におよんだ。大阪の陣に敗れて亡命した浪人などもおり、その中には山田長政のようにシャムの国王から高い官位を与えられたものもいた。
 家康はキリシタン禁教よりも南蛮貿易の利益を優先したため、キリスト教の信者は増えていった。幕府はこれを脅威と感じ始め、その対策に苦慮した。遅れてアジア貿易に参入したオランダとイギリスは「スペインとポルトガルは日本を征服しょうとしているが、我々プロテスタントは交易だけで、布教はしない」と弁明して、日本との貿易に食い込んできた。
 幕府は1612年からキリスト教禁止令を3回発令し、スペインとポルトガルの来航を禁止した。1635年には、日本人の海外への渡航も帰国も全て禁止して統制を強化した。

「競勢酔虎伝:天草四郎」(月岡芳年、shitoshi / Public domain)

 1637年、九州の島原と天草地方で農民とキリスト教信徒の百姓など約4万人が、キリシタン大名だった小西行長の遺臣らとともに一揆をおこした。島原藩主・松倉勝家の重税と過酷なキリシタン弾圧に抗議する人々は、15歳の天草四郎を総大将に立てて決起した。これを島原の乱という。激しい抵抗に手を焼いた幕府は翌年、約12万人の大軍を送り3カ月かけてようやく鎮圧した。
 島原の乱のあと、幕府はキリスト教の弾圧を強化した。全住民を寺の宗門改帳に登録させ寺請状(キリスト教徒でないことを証明するもの)を出させた。これが今に残る檀家制度の始まりとなった。また、キリスト教徒でない証しとして踏み絵を使った。
 1639年、徳川家光は5回目の禁令をだし、オランダと中国以外の外国船の入港を禁じた。更に 1641年オランダ商館を平戸から長崎の出島に移して封じ込めた。対オランダ・ 中国以外との貿易と出入国を厳しく制限するこの制度は、のちに鎖国とよばれた。


《資料》 鎖国とは

 鎖国は、完全に国を閉ざした制度ではなく、その狙いはキリスト教の影響を排除し、幕府が貿易と海外情報を独占することにあった。鎖国という言葉は、長崎の外国語通訳が使ったのが始めで、明治以降歴史用語として定着した。徳川時代は、スペインとポルトガルと断交しただけで、国を閉ざすという意図はなかった。


鎖国時代の外交関係

長崎のオランダ人と遊女を描いた浮世絵(1800年、Unknown author / Public domain)

 長崎の出島には、オランダ船がヨーロッパから時計・書物など数々の文物をもたらし、更に中国(清国)に立ち寄って生糸・綿織物・書籍を買い込み、日本へ運んできた。日本からは初めの頃は、銀や銅、のちには伊万里焼などの工芸品が輸出された。幕府はオランダ商館長に「オランダ風説書」を提出させ、海外の情報を集めた。長崎には中国船も来航し、唐人屋敷から提出される「唐船風説書」でアジアの情報を得た。
 徳川家康は、対馬領主の宗氏を介して、朝鮮との国交を回復し、将軍の代替わりの度に朝鮮通信使とよばれる使節が将軍を表敬訪問した。また宗氏は朝鮮のプサンに「倭館」を開き、活動の拠点とした。倭館の日本人住居区は33haほどあり、対馬藩の役人、商人、留学生など約500人ほどが住み、貿易にたずさわっていた。
 1609年、薩摩藩は琉球王国に兵を送り、尚氏を服属させた。琉球は清国の冊封も受けていたので、双方の支配に服し、将軍の代替わりには江戸に使節を送り二重外交を続けた。清国に朝貢して得られた物資と情報は、薩摩藩を通じて幕府にももたらされた。
 蝦夷地(北海道)の南部を支配した松前藩は、漁労に従事するアイヌとの交易権を独占し、海産物や熊・アザラシの毛皮などを入手した。アイヌは千島列島や樺太、満州などとも交易しており、彼らを通して蝦夷錦とよばれる中国産の織物も流入した。1669年には、アイヌは、松前藩の商人の不正な交易に反発し、シャクシャインを頭領として蜂起したが、松前藩に押さえ込まれ、敗北した。
 このようにして、江戸時代には長崎、対馬、薩摩、松前の4つ藩が窓口となり、外国との交易を行い、情報も入ってきていた。幕府は貿易を統制し、利益や情報を独占しようとしたが、多くの藩でも、「オランダ風説書」などを入手し、各藩は独自に海外の情報に接していた。

身分制度と社会構造

 江戸幕府は、武士・百姓・町人を区別する身分制度を定めた。それにより、争いのない穏やかな社会秩序に基礎を置く、平和で安定した社会を作りだした。武士は苗字帯刀の名誉を有し、治安・国防と行政事務にたずさわった。
 百姓・町人は生産・加工・流通にかかわり、幕府および藩の財政をささえた。このように異なる身分の人々が相互依存しながら江戸時代の豊かな時代をささえていた。
 武士と百姓・町人を分ける身分制度は必ずしも厳格に固定されていたわけではなく、武士が百姓や町人になり、町人が武家の養子になることもあった。そのほか公家や神官・僧侶などの人々がいた。
 又これとは別に、えた・ひにんとよばれる身分が置かれた。これらの身分の人は、農業の他に、牛馬の死体処理、武具の皮革製品などの特殊な工芸に従事し、特定の地域に住むことが定められるなど、きびしい差別を受けた。
 江戸時代の村では、有力者が名主(庄屋)、組頭、百姓代などの村役人となり、年貢の徴収、入会地の調整、用水・山野の管理など村全体に関わる仕事を行った。村の自治は中世以来の惣の伝統を受け継ぎ、寄合の合議によって行われた。村人は五人組に組織され、年貢の徴収や犯罪の防止に連帯責任を負った。また重大な犯罪を犯したものや寄合で定めた掟を守らないものには、村八分の制裁が加えられた。
 百姓は年貢を納めることを当然の公的な義務としていたが、不当に重い年貢を課せられると、結束して軽減を訴えた。これを百姓一揆という。一揆は暴動の形をとることはめったになく、たいていは領主との団体交渉だった。大名は出来るだけ要求を受け入れて穏やかにことを治めようとした。
 城下町では、武士と町人の住む地域は区別された。武士は城を守るように住まい、町人は街道にそって下町を形成した。大工町、鍛冶町、呉服町のように職業別に集まり住むこともあった。商人が治める冥加金・運上金とよばれる営業税は、藩にとって年貢米と共に重要な収入源だった。また、町の有力者が町役人となり、一定の自治を行った。


《補講》江戸時代の日本の人口と身分制度

歌川広重 – Online Collection of Brooklyn Museum『名所江戸百景』より、日本橋雪晴(Hiroshige / Public domain)

 江戸時代の日本の総人口は、約3200万人でした。公家、神官、僧侶が約1・5%、武士が約7・0%、百姓は全体の85%、町人が5%、えた・ひにんが1・5%位の割合になっていたと推計されています。
 身分制度・江戸時代には、「士農工商」という身分制度あったといわれることがあります。しかし、「工」(手工業者)と「商」(商人)の間には身分上の区別はありませんでした。江戸時代には武士、百姓、町人の3つの身分を区別するものでした。
 それは職業上の区別であり、血統による身分ではありませんでした。百姓や町人から武士にとりたてられる者もいたし、反対に武士から町人などになる者もいました。武士の家でも長男が家を継ぐと、次男、三男は農家の養子になることもありました。町人は城下町に住んでいる、武士以外の様々な職業の人をさし、百姓は村に住んでいる人々をさしました。
 町に住む鍛冶屋は町人で、村の鍛冶屋は百姓であり、漁業や林業に従事する人はみな百姓でした。「百姓=農民」 ということではなかったのです。また農家の息子たちが町にでて、何らかの技術をえて独立すると町人になるという具合でした。
 町役人は町人から職業別に選ばれ、合議に基づく自治をおこないました。武士身分の町奉行が町役人をまとめていました。自治組織に参加出来るのは、営業税を納め、店を構えた町人であり、その下で働く人は長屋住まいの職人や奉公人と決まっていました。