特別寄稿=講師随想「ブラジル紀行」=三重県在住  修養団講師・伊勢青少年研修センター 中山貴生(たかお)

食前感謝の言葉の時。『形が心を正し、心が形を美しくする瞬間』

 令和二年一月七日、サンパウロ・グアルーリョス空港に降り立った私を迎えたのは、照りつける夏の日差しであった。ふと外に目をやると、電光掲示板に記された気温は三十六度。三十時間の旅路の末、遂に辿り着いたのである。地球の裏側、ブラジルに。
 さて、皆さんはブラジルでも修養団運動が展開されていることをご存知だろうか? 今を遡ること九十四年前、一九二六年に蓮沼門三初代主幹の末の弟にあたる蓮沼信一氏がブラジルに渡って活動を始めており、正式にブラジル修養団が創立した年は一九七一年、来年には創立五十周年を迎える。
 戦前における修養団運動の進展は国内のみに留まらず、南米やアジア各地に存在した日本人コミュニティの支えとなっていたという。しかし、現在に至るまで活動が続いている国はブラジルのみである。その背景にあるものは、信一氏からつながるブラジル修養団の皆さんの情熱と努力は元より、世界で最も日本人移民が多く、今も日本文化を大切にしている国だからであろう。
 私の現地での滞在期間は三十七日。主な役割は小学生から大学生までを対象とした二泊三日の講習会の指導を中心に、ブラジル修養団の皆さんとの勉強会や日系の方たちへの講演などであった。
 その合間を縫って様々な名所や施設を見学する時間もあった。イグアスの滝をはじめとする雄大なる大自然、圧倒的なスケールを誇る教会施設など見るべきところが多くあった中でも、ひときわ心に響いた場所が日本移民資料館であった。
 滞在中に多くの時間を過ごしたリベルダーデと呼ばれる日本人街にある史料館を訪れたのは、ブラジルに着いて間もない頃。そこで目にしたものは、百十二年前に日本からブラジルに渡った先人たちが、途轍もない苦労の末に今の日系社会を築き上げていった様子である。家具も無い掘っ立て小屋に住まわされ、奴隷同然の扱いを受け、低賃金で労働に明け暮れる、そのような絶望的な環境において最も大切にしたこと、それは子供たちへの教育であった。

大きな愛情に包まれていたことを感じる『灯(ともしび)のつどい』

 自分が苦しい時ほど周りの人を大切にするという日本人の精神性、遠く祖先より受け継がれた恩を子孫へと繋いでいく姿を遠い異国の地にあって知った時、震えるほどの感動を覚えた。
 このことを裏付ける言葉を現地の日系の方から教えていただいた。
「西洋移民の街には必ず教会があり、アメリカ移民の街には必ず商業施設があります。では日本移民の街には何があるのか、その答えは学校です。未来を担う子供たちが苦労しないように、質の高い教育を受けさせることを何よりも大切に考えてくれた。このことが、私たちの一番の誇りなのです」
 この話を聴いた時、自分がこの地で果たすべき使命が明確になった。学校を作ることが先人たちの目的だった訳ではない。子供たちの幸せをひたすらに願った、その思いが学校という形で遺ったのである。ブラジルで修養団運動が今も盛んに行なわれていることも、この先人たちの思いと通底している。講習会という形の奥にある思いは何か、それは子供たちに豊かな人生を歩んでほしい、温かいものを届けられる人になってほしいという切なる願いである。

 ブラジルでの講習会も、日本で行われているものと大きくは変わらない。『愛と汗』の理念のもと、『場を清め、時を守り、礼を正す』ことを中心にプログラム全体を通して感謝の気持ちや思いやりの心を育んでいくことを目的としている。それは『ただ掃除をし、時間通りに進め、挨拶をする』という形式的なものではない。
 掃除は綺麗にすることを目的とするのではなく、自分の心まで磨かれていくような思いに至り、時間は守らせるのではなく、自発的に時間を守れる規律ある生活習慣を身につけ、礼は単なる挨拶に留まらず、相手への敬意やその場の空気を明るくする思いを込める。
 このことを言葉も直接通じない中で子供たちに伝えることは簡単ではない。しかし私が子供たちにのこしたいものは、言葉だけで伝えられるものではない。人の生き方を通してでしか届かないものが必ずある。彼らと共にする時間を少しでも増やし、その中で自分の姿が心に訴えかけるだけのものでありたいと常に念じ続けた。その思いと行動が彼らの未来、そして幸せにつながっていくのだと信じて。
 果たして私はブラジルで一体どれだけのものをのこせたのだろうか。それは定かではないが、最後の講習会で一人の青年が涙ながらに語ってくれた「先生に出会って人生が変わったよ。」という言葉は、日本に旅立つ私に送られた最高の餞となった。
 ブラジルを離れて半年が経ち、日本も夏の盛りを迎える。まぶしい日差しに照らされると、あの暑かった日々がよみがえる。懐かしい彼らの顔を思い浮かべると改めて思う。先人たちにはまだまだ遠く及ばないが、これからも少しでも何かを遺せる自分でありたいと。