日本移民と邦字紙の絆=日系メディア百年史(2)

戦前の日本人街、コンデ街の様子(『在伯同胞活動実況写真帳』」(1938年 竹下写真館)

戦前の日本人街、コンデ街の様子(『在伯同胞活動実況写真帳』」(1938年 竹下写真館)

 戦後に関しては、二世が台頭する1970年代以降にポルトガル語の日系メディアが勃興し、1980年代に全盛を迎える。
 皮肉なことにそのメディアによって喚起された日本へのあこがれをいだいてデカセギブームにのって訪日した「ジャポネース(日系人)」たちは、日本で「ブラジル人」たる自分を発見していく。
 一方、日本語の日系メディアは一世世代の高齢化と減少に連動して、1980年代以降、衰退が顕著になっていった。
 日系メディア史という存在は、「ブラジルにおける日本人」というエスニック意識(移民という少数民族が持つ意識)と切っても切れない関係にあり、メディアという器に盛られた中身の大きな部分はそれに関連したものだった。
 日本・ブラジル両国のナショナリズムの動きが、移民のエスニック意識の生起や心理的な変遷に強く影響を与えており、邦字紙に表われる集団意識の議論も本稿にふくめている。また、読者や視聴者たるコミュニティの構造や盛衰変化についても適時触れていく。
 また戦前の邦字紙に関してはすでに記述が多々あるので極力はぶき、今まで扱われてこなかった戦中から現在までの歴史に重点をおいた。
 日本語による最後の移民史編さんという意義を念頭におき、今しか話を聞くことができない高齢の邦字紙関係者に重点をおいて、可能なかぎり聞き取り調査を行い、それを内容に反映させた。
 さらに、勝ち組側の言論を含めた包括的かつバランスのとれた歴史の記述に留意し、百年間の日系メディアの変遷の説明に重点をおいた。
 変遷の分析に関しては著者には荷が重く、ブラジル社会や歴史への認識不足や、思い込みの強すぎる部分も多々あると思われるが、未来の研究者に修正を委ねたい。(以下、敬称略)

■第1節 戦前編■

 黎明期の邦字紙の作り手は北米からの転住者とコスモポリタン的な知識人であり、読者たる日本移民は農家の次男、三男を家長とする家族であることが一般的だった。
 最初の新聞はオピニオンペーパーであり、言葉も文化もわからない異世界で生きていく上で必要な考え方と情報を提供する役割が強く、結果的に同胞社会の思想や意識形成を先導してきた。
 武蔵大学教授でメディア論を研究する白水繁彦は、世界各国の邦字紙の発生には共通パターンがあると論ずる。
 「最初の段階では、エスニック・メディアが皆無か過小であるためエスニック集団の最初のメンバーが新天地での適応に不便をきたしているという状態があり、それへの対策としてメディアが発生するという構造がある。やや時間をおいて、コミュニティの規模が拡大すると適応をめぐって複数の世論が対立し自派の意見を有利に展開するためにメディアをもつ者が生じるという構造がある」 とするが、まさにそのような展開がブラジルでも見られた。(つづく、深沢正雪記者)