特別寄稿=「ウガンダの父」柏田雄一 =戦乱越えて繊維業を立ち上げ=サンパウロ市在住 酒本恵三

ウガンダ駐在時代の柏田雄一さん(在ウガンダ日本国大使館サイトのカンバラ通信第2回より)

 ウガンダ共和国で貧しい人々から「ウガンダの父」と敬われる日本人を知っていますか?
 「ウガンダ共和国」東アフリカの元独裁国家で国土のほとんどが標高1200メートル以上。アフリカなのに年間平均気温23度と涼しく過ごしやすい気候です。面積は日本の本州とほぼ同じで人口は約3600万人です。40を超える民族が共生することから世界で最も多様な民族が暮らす国と言われています。
 そんなウガンダ共和国で「ウガンダの父」と呼ばれる日本人が柏田雄一(かしわだゆういち)さん。柏田さんは「フェニックス社」というシャツメーカーの社長です。国内でウガンダ人に向けたシャツなどを製造販売しています。
 しかし、なぜ柏田さんはウガンダ共和国に来ることになったのでしょうか? 
 工場の入口に飾られた1枚の看板。「PHENIX LOGISTICS LTD.」社名と国旗の後に続き、「ウガンダの繊維業界のための共同プロジェクトである」という言葉があり、そして、「ウガンダの誇り」と書かれています。
 一国の大統領から必要とされた男の足跡は確実にウガンダに残っていくでしょう。

単なる駐在員から出発

北ウガンダのお祭りの様子(USAID Africa Bureau / Public domain)

 柏田さんは1958年に大阪の衣料会社ヤマトシャツに就職。当時、品質の良いヤマトのワイシャツがウガンダ共和国で大人気に。現地にシャツ工場を作ることになりました。そこで白羽の矢が立ったのが柏田さん。その理由は彼が外語大出身だったから。
 こうして柏田さんは家族を連れ未知なる秘境ウガンダへ。そこで雇用したのは現地のウガンダ人125名。工場が出来たことで従業員の生活は飛躍的に向上しました。なぜなら当時のウガンダは農業がメインで、自分たちだけの分を生産していたので生活は貧困そのものでした。
 柏田さんの工場で賃金を得たウガンダ人は家族を貧しさから救う事ができました。仕事にもやりがいを感じ、何不自由ない生活を送っていた柏田さんでしたが、ウガンダに来てから2年後クーデターが勃発。
 それは初代大統領ムテサ2世を打倒すべく起った反乱でした。標的となったのはムテサ2世の出身である国内最大部族ガンダ族。反乱軍は彼らの排斥運動を始めたのです。ムテサ2世と同じ部族の出身という理由だけで、なんの罪もない人々が次々と命を落としていきました。
 その被害は柏田さんの工場にも。柏田さんはガンダ族の従業員たちをかくまいました。すると、そこへ反乱軍の兵士がやってきてガンダ族の従業員を差し出さなければ撃つと言われました。それでも柏田さんは自分の命よりも従業員の生活を守ることを選択。
 ウガンダ人のために自らの命を差し出す外国人の姿を目の当たりにし、兵士は「妹をここで雇ってくれないか」と言い出しました。彼の妹は多くのウガンダ人と同じように安定した職に就けず貧困に喘いでいたのです。彼は貧しい人々を救う柏田さんの姿に心打たれ銃を下ろし、そのまま立ち去って行きました。
 この行動がウガンダ人の心を打ち従業員との間に深い絆が生まれました。そして柏田さんは「もっと多くのウガンダの貧しい人々を救いたい」と思うようになった。
 そしてヤマトシャツは政府からウガンダで初となる学校制服の製作を受注し、工場は大きくなり12年に従業員は約8倍の1千人に。こうして職に就けず貧しい生活を送っていた多くのウガンダ人を救っていった柏田さんですが、1978年にウガンダ・タンザニア戦争が起こってしまいました。

略奪でやられた工場

 当時、大統領だったイディ・アミンは隣国タンザニアに侵攻を開始。しかし逆にタンザニア軍に攻め込まれウガンダの首都は壊滅状態に。もはや警察は機能せず市民が暴徒と化し、日々激しい略奪が起きる危険な状況。
 身の危険を感じた柏田さんは家族に日本に帰国させ、本人も隣国のケニアに避難させられました。BBCがラジオで工場の略奪を伝えました。それを聞いて従業員や工場が心配になり、ウガンダに行くことを決意しました。
 大使に「ちょっと自分の工場が略奪にあったというので見てきます」と言ったら、「柏田君それだけはやめてくれ!」といわれましたが、それでもあくまで自己責任で行くことを決めたそうです。国境はもちろん閉鎖されていて航空機も飛んでいません。ですからチャーター機で行きました。
 ウガンダのエンテベ空港の管制塔の域内に入り、無線交信をしたらすぐに空港の人がリプライしてきました。「着陸の許可がほしい。私の乗客は日本人だ。工場が略奪に遭った。それを確かめに行くだけだ。他の意図は何もない」と伝えてもらいました。
 もちろん、空港に飛行機は一機もなかったのです。そこにセスナ機が降りたのです。降りた途端にタンザニア軍と元ウガンダ軍混成部隊がジープでやってきて、飛行機を囲みました。
 全員銃をこちらに向けて、「何しに来た?」と聞いてきます。「工場が略奪にやられたというからそれを見に来た。僕の工場はUGILと言うんだ」と言いました。すると、一人が「オー、ミスターカシワダ!」と叫びました。スワヒリ語でタンザニア軍に彼が説明してくれました。
 すると隊長が「オー、ウエルカム!」と言って将校にジープで連れて行ってもらうことになりました。暴動によりヤマトシャツの工場は破壊されていました。
 ですが、従業員も100人くらいそこにいました。通信手段はないけれど、「柏田が帰ってきている!」と話が一気に広がって、みんな集まってきたのです。
 そして、みんな土下座するのです。本当にぼろぼろ泣いていました。「ミスターカシワダ、誠に申し訳ないです。こんなことをしたのは全部ウガンダ人です。本当に残念だと思うし、お詫びのしようがないです」とみんなが泣くのです。

無傷だった自宅

 工場を失って悲しいのは自分だけではないと気づいた柏田さん。その後少しだけ寄りました。この状態ではもちろん自宅もやられていると思って覚悟していました。家の前に着いて見ると、ゲートは閉まったままになっています。よく見たけれど中に入った形跡もゼロです。
 すると、近隣のウガンダ人達が「ミスターカシワダ、おかえりなさい!」「周りはみんな略奪にやられている。うちは略奪がなかったのか?」と聞きました。すると「我々が、略奪者がきてもミスターカシワダのことを説明して止めました」と言うのです。近所の連中がみんなで「ミスターカシワダの家を守れ!」と動いてくれたのです。
 鉄の扉にUGILの紋章とJapanと書いていました。「ミスターカシワダ」と「UGIL」は皆知っています。「ミスターカシワダが帰ってこなくなったら、ウガンダにヤマトシャツがなくなるよ」と近所の人が略奪者に説明していたのです。
 そして、略奪者の間でも「あの家だけは略奪するな」となっていったのです。柏田さんはウガンダに留まり彼らに恩返ししていくことを決意。
 そして2年かけて工場を再建。気持ちを新たにウガンダ人と共に仕事を再開することになりました。ところが政府の要人にシャツを届けに行くと「金がないからお前が金を出せ」と理不尽な要求をしてきました。

理不尽な要求断り、帰国

 柏田さんが断ると後日、国会で「柏田はウガンダ政府に反抗した。奴は殺すべきだ」と糾弾してきたのです。この事態を知ったヤマトシャツはウガンダからの撤退を決意。柏田さんは1984年、志半ばでやむなく日本へ帰国することになりました。
 日本に帰国した柏田さんはウガンダでの功績が認められヤマトシャツの副社長に就任。それから15年の月日が流れ、もう二度とウガンダに行く事はないと思っていた柏田さん。
 ところが1999年、ウガンダ大統領ムセベニによって再びウガンダに呼び戻されました。それはウガンダのシャツ工場を再開してほしいと言う要請でした。実は柏田さんがウガンダを去った後、ヤマトの工場は国有化されたのですが怠慢な経営により経営が悪化。工場は閉鎖されていたのです。
 地下資源の乏しいウガンダにとって繊維業は国の大切な産業です。ムセベニ大統領はウガンダの経済を立て直すため柏田さんに直訴したのです。しかし、いまや柏田さんはヤマトシャツの副社長。身勝手にウガンダへ行くことなどできません。いくら大統領の要請とはいえ簡単に応じることは出来ませんでした。

頭を下げる大統領

『ウガンダの父とよばれた日本人 アフリカにワイシャツ工場をつくった柏田雄一』(著者・今井通子作/瀬野丘太郎絵、PHP出版、1991年)

 するとムセベニ大統領は「I beg you」と言って頭を下げてきたのです。再びウガンダの未来のため働く決意をした柏田さん。何と副社長の座を捨てヤマトシャツを退職。
 そして、69歳の時、再びウガンダへと渡り独立してフェニックス社を設立したのです。ウガンダの発展のために人生を捧げ今も働きつづける彼の姿に、現地の人々は柏田さんのことを「ウガンダの父」と呼んでいます。