特別寄稿=ありあんさ通信31号=歴史から消されたアリアンサ(協同)の地、ここにあり=わが友、マサカツのこと=東京都在住 木村 快

矢崎正勝

 2020年5月28日、ブラジル・サンパウロ州ミランドポリス市アリアンサ地区のユバ農場で暮らしていた「マサカツ」こと、矢崎正勝が天国へ旅立ったとの知らせを受けた。享年76歳。
 1978年以来続けてきたぼくの〈ブラジル移民史〉調査は、ほとんどマサカツが資料を集め、助言してくれたものである。
 マサカツのことを紹介しておきたい。
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 マサカツは1943年、戦前の日本の植民地台湾の台北市生まれ、敗戦後は東京都小金井で少年時代を送っているが、19歳の時アリアンサ・ユバ農場に渡っている。
 ユバ農場は戦前から共生協同を原則とし、「祈り・耕し、芸術する」農場として知られていた。当初、マサカツは作業に加わらずギターばかり弾いていたらしいが、次第に芸術部門を担当するようになった。

◆〈日本人ブラジル移民史〉の謎

 1994年、ぼくが療養のためユバ農場に滞在したとき、日系二世に伝える移民の歴史をまとめたいのだが、なんとか日本側の資料を手に入れることは出来ないだろうかと相談されたことがある。
 日本政府が移植民資料をすべて廃棄したため、自分たちの出自を知ることが出来ない。日系社会の公的移民史とされる『日本人ブラジル移民八十年史』(1990年日伯文化協会編)ではこの現存する最大の移住地〈アリアンサ〉のことさえほとんど省略されている。
 「じゃあ誰か研究者を探してみよう」と日本に帰ってみると、日本の歴史学では移民史、植民地史は扱わないことになっていて、戦前、ブラジル、満州、朝鮮などに数百万の人々を送り出していながら、専門の研究機関はなく、ブラジル移民については移民学会やブラジル移民史料館でも戦前の移民資料は扱っていないとのこと(2003年、木村確認)。
 そんなことも知らず、現代座は1994年にブラジル日本通商条約100周年記念行事として日系諸団体から招聘を受け、戦後移民を扱った現代座の作品「もくれんのうた」をブラジル全土13都市で記念公演していた。実に恥ずかしいことである。

◆アリアンサはなぜ移民史から消されたのか

 日本人のブラジル移住はサンパウロ州政府による農場労働者募集で1908年からはじまった。移民会社の宣伝にだまされ、帰国できないまま住み着いた日本人移住地がたくさん生まれ、それが世界最大の日系社会を形成する土台となった。だが移住者は移住地を捨てて都市へ集中し、集落跡もほとんど消滅している。現在残るのは、日本文化を継承するユバ農場があるミランド・ポリス市アリアンサ地区だけである。
 アリアンサは出稼ぎ移民ではなく、1923(大正12)年、「理想の村」をめざして協同組合方式で建設された大移住地で、最盛期には人口4万人を超える大農業地帯だった。日本国内では大正8年ころから大正デモクラシーの影響で〈協同の生き方〉を志向する青年たちが増えていた。
 貧しい若者を支援する〈日本力行会〉の永田稠らはブラジルにおける出稼ぎ労働者の悲惨な実態を知り、長野県の協力を受け、移民会社に頼らず独自に協同組合方式の移住地を建設しようと、日本全国から協同組合員を募集し、その出資金でサンパウロ州奥地に協同組合方式のアリアンサ移住地を開設。日本力行会の青年たちが無償で開設に従事している。
 アリアンサとはブラジル語で協力・協同を意味する。ブラジル市民との共生を理念とし、日本語の標記も〈植民地〉でなく〈移住地〉を使った。そのため、戦前ブラジル地図に記載された唯一の日本人移住地でもある。
 だが、昭和2年以後急速に右傾化する日本政府内務省の干渉によって、政府からの保護支援が断ち切られている。そして移民会社中心の日系社会では異端の移住地とされ、孤立しながら生き続けた歴史を持つ。

◆闇に埋もれた〈国策移民の経過〉を明らかに

 ぼくとマサカツは1995年にアリアンサ史研究会を組織し、移民史に関心を持つ人々の協力を受けながら埋没資料を発掘し、2004年には日本の外交史料館で戦前の国会審議議事録を調べ、全体像を確認するところま来た。その経過を簡単に紹介する。
 実は昭和2年からの国策移民は、田中義一内閣の移住組合連合会専務理事に就任した梅谷光貞が、アリアンサ開設責任者だった輪湖俊午郎の協力を受け、〈チエテ〉、〈バストス〉、〈トレス・バーラス〉、〈アリアンサ〉の四大移住地を開設して、その後の日系社会の土台となっている。
 ところが昭和6年に梅谷光貞が政府の無謀な指令を納得しなかったため、平生釟三郎内相に解任され、国策移民記録はすべて削除、アリアンサ移住地についての記述も移住史から消し去られていた。

創設八十年

 これをどういう形でまとめるかという段階で、当時ユバに滞在していた言語学研究者の渡辺伸勝から「当然、全アリアンサの歴史が知りたい」との提言が出る。実はアリアンサ3地区も戦前、政府の干渉で分裂したままで、お互いに全体の歴史は判らなかった。
 マサカツはすぐアリアンサ第1、第2、第3地区の有志に呼びかけ、〈全アリアンサ史〉の編集委員会を設立する。すでに2世が多数を占める時代であり、日本人よりブラジル人を対象にして編纂することになり、3年がかりで完成。日本語版とポルトガル語版が発行された。
 こうして『創設八十年』は単なるアリアンサ地域史ではなく、日系社会ではじめての日本人移民史全体の根幹を示す文献となった。
 『共生の大地・アリアンサ』(木村快著、同時代社2013年)はこうした蓄積をもとに執筆できた。

◆NGO・コムニダーデ・ユバ

 アリアンサは中産階級の出身者が多かったから農業生産力は脆弱だった。そこで日本力行会はアリアンサに南米農業練習所を開設して多くの青年を送り込み、移住地ではその出身者を小作人として雇用し、文化活動を保証した。小作人による野球チームは全ブラジルで3度も優勝している。俳句・和歌・文芸も盛んだった。アリアンサの句会は現在も継承されている
 青年たちは野球チームによる遠征でブラジル各地の移住地の現状を知り、ブラジルに適した農業生産の研究に励み、養鶏産業を起こし、移住者たちを助けた。
 野球チームからはじまったユバ農場は現在、NGO(非政府公益団体)コムニダーデ・ユバの名称でアリアンサ地域の文化センター的存在となっている。

◆ブラジル連邦政府文化功労賞受賞

ポントス・デ・クルトーラ マサカツの指揮で演奏するアリアンサ弦楽合奏団

 アリアンサ・ユバ農場の〈農民バレエ団〉は1950年代から全ブラジルに知られている。
 2008年にはブラジル連邦政府から長年のブラジル国民に対する文化的貢献が評価され、NGOコムニダーデ・ユバに〈ブラジル連邦政府文化功労賞〉が贈られている。
 これを機にユバ農場はブラジル政府から〈ポントス・デ・クルトゥーラ〉(地域文化拠点)の指定を受け、周辺地域の子どもたちのための弦楽器指導を行い、〈アリアンサ弦楽合奏団〉が誕生している。これは大都市での話ではなく、サンパウロ市から遠く600キロも離れた農村地帯でのことであり、多くのブラジル人の関心を集めている
 毎年ユバのクリスマスでは日本語演劇の上演と同時に、弦楽合奏が行われ、近郊の街だけでなく、サンパウロ市からも多くの観客がやってくる。

◆北原・輪湖記念館

北原地価造輪湖記念館。北原地価造邸は骨格しか残っておらず、輪湖俊午郎邸は使える材料が多かった。骨格は北原地価造邸を使用し、室内部分は輪湖俊午郎邸の材料を使用。広場の周囲は戦後ユバ農場に移住したブラジルでも著名な彫刻家として知られる小原久雄の作品が並んでいる。

 1994年当時、ジャングルの中でアリアンサ開設責任者だった輪湖俊午郎や北原地価造の旧宅が廃墟になっていた。歴史を継承するためにこれを移築、改装して〈移住記念館〉にしようということになった。
 さっそくマサカツが移築作業計画を作成した。9カ月に及ぶ解体移築作業は農場員が行い、工費、材料費は全ブラジルの協賛者からの寄付が集められた。
 「北原・輪湖記念館」と命名され、応接間、来客宿泊室、研究室、会議室、移住関係資料室が開設され、維持管理はユバ農場が引き受けている。
 ブラジルは世界各国からの移住者で構成されている国であるため、それぞれの母国文化の特徴をしのばせる歴史的文化財が残っているが、日本人移住者の場合はほとんどの移住地が消滅したこともあり、ほとんど残っていない。日本式の木造建築は維持保存が困難なこともあり、この記念館の実現は非常に貴重である。

◆共生協同を生きた男

 マサカツはアリアンサの文化伝統を背負った男だった。世界がコロナウイルスで揺れる現代だからこそ、〈共生協同〉に生きた男として紹介しておきたかった。
 農場の近況は、またあらためて紹介したいと思う。
(『現代座レポート№83』2020年9月1日発行、通巻486号より許可を得て転載)
(編注=木村快さんは、演劇NPO現代座の代表。劇団現代座は約30年にわたって地域公演を続けて全国巡回し、山田洋次監督の映画「同胞」のモデルになった。ブラジルでも「もくれんのうた」を引っさげて巡回した)