中島宏著『クリスト・レイ』第56話

 二人の場合、ほぼバイリンガルになりつつあったが、そのことが後になって大きな意味を持つことになるとは、無論この時点では二人ともまだ知る由もない。この時期は、二人は日本語だけで話しているが、これはマルコスにとって一方的に有利といえた。彼の日本語は上達していくが、アヤのポルトガル語は、上達の機会を押さえられてしまっているという感じで、何だか不公平な形でもある。
 いずれそのうちに、ポルトガル語に転換することもあり得るだろうが、今のところ一応、アヤが先生ということであれば、まずは日本語の会話を続けて行くより仕方がないようである。マルコスの日本語はアヤとの会話の中で、徐々に固さが取れ、友だち同士の話し方に変わっていったが、それでも、彼の性格からか、それが極端に変わるということはなかった。

 この二人の組み合わせは、その時代背景から見ると誠に奇妙で稀有なものであった。
 一九三0年代後半のこの時代は、笠戸丸で日本から集団としての移民が初めてこのブラジルにやって来てから、すでに三十年近くの月日が流れている。
 あれから数多くの移民たちが来たが、その大半はこのサンパウロ州奥地のノロエステ(北西)地方を中心に入植し、そのほぼすべてがコーヒー栽培を中心とする農業に従事していた。そして、三十年という年月の長さにも関わらず、日本からの移民の人々は一般のブラジル社会に中々出て行こうとはせず、自分たちだけの社会を作り、そこから出ようとはしなかった。
 その原因のひとつには、この時代の彼らの移民の目的が、いわゆる出稼ぎという点にあって、ブラジルでの生活はいわば暫時的なものであり、いずれ目標が達せられて大きな資金が得られれば、その時点で即刻日本へ帰るというのが、ほとんどの移民の人々の考えであったということがある。彼らにとって、このブラジルは金を稼ぎに来た所であり、それ以外の目的を持つものではなかった。だから、現地に溶け込んでポルトガル語を覚え、ブラジルの社会に適応していこうという発想も浮かばず、その必要性もまるで感じていなかったのである。
「子供たちを、ここの学校に行かせても意味がない。どうせ我々はいずれ日本へ帰るんだから、ポルトガル語を覚えさせたって無駄なことだ。それよりも日本語をちゃんと教えて、日本に帰ってからも困らないようにさせねばならん」
 移民というものを、出稼ぎという視点から捉えていた人々にとって、このような思考は至極当然のことだったであろう。そのことが、日本人だけで固まった社会を形成していったのも、ある意味では無理もないことであったともいえる。
 ただ、この傾向は、ブラジルの社会では奇異な目で見られることになり、日本人というのは自分たちだけで固まって、閉鎖的集団を作る人種だというふうに考えられ始めていた。そして、それに対する批判も徐々に高まっていった。
 ブラジルのように世界中から様々な民族を移民として受け入れ、等しくこの大地に順応させていくという大らかな面を持っている国にとって、ある特定の国民あるいは民族に対して差別をするというような狭量さは持っていない。