中島宏著『クリスト・レイ』第58話

「しかし、それはおかしいではないか。自分はブラジル人で、ここはブラジルなんだから、決して外国人というわけではない。外国人ということであれば、ここにいる日本人移民の人たちこそみんな、ガイジンと呼ぶべきだろう」と言うと、
「いや、それでも俺たちにとって、お前はガイジンなんだ」という返事が返ってきた。
 それは決して、論理的な説明ではないのだが、後になってマルコスは、そこに日本人の持つ特殊性があるのだということに気が付いた。
 要するにこの場合、日本人の持つ感覚は、自分たちとよそ者という感じのものであり、同じ人種の自分たちに属さない人間はすべてガイジンという発想なのである。それがこのブラジルという異国に住んでいても、論理的には自分たちが外国人であるにもかかわらず、ブラジル人たちのことをガイジンと呼ぶことになる。
 これは、まったく矛盾した表現ではあるけれど、現実にこの異郷に住む日本人たちにとってそれは、当然というような感覚であった。マルコスは、彼らの世界に入り込んで行くにつれて、その彼らの持つ特殊性が少しずつ分かるようになっていった。それは、正しいとか間違っているとかという問題ではなく、要するに思考の違い、文化の違いというようなものであった。その辺りが理解できるようになると、日本人移民たちの持つ閉鎖性社会というものが、ある程度分かるような気分になっていった。
 そのような社会からは、積極的にブラジルの社会に交わって行こうという発想は中々生まれてこない。人々の生き方が集団性というスタイルを持つ限り、個人単位で単独の形でそれぞれが、広いブラジル社会に入り込んでいくということは、極めて難しいということになる。さらには、その延長線上の思考として、ブラジル人との接触は消極的なものとなって、最小限必要な範囲から先へは進んでいかないことになる。
 この形は、日本人移民の人々にとって都合のいいものである上に、ポルトガル語が満足に話せないことによる、ブラジル人たちとの付き合いのわずらわしさから逃れるという側面も持っていた。もっともこのことは、暫時的な滞在であればそれでもいいかもしれないが、この国に永住するという目的を持つことになると、そういうわけにはいかなくなる。その辺りから、日本人移民たちは大きなジレンマを抱え込んでいくことになる。
 出稼ぎから永住に切り替えるということは、思ったほど簡単なことではない。心情的にもそれは難しいことであるが、それ以上に、現実と向き合ってブラジルの社会に入り込んでいくことは、彼らにとってさらに大きな犠牲と負担、さらには同化への努力が強いられることを意味する。
 人によっては、そこから同化へと進んでいく者もいたが、多くの場合はむしろ、この場面で後ずさりするようにして、さらに閉鎖性社会に逃げ込んで行こうとする傾向を示す者がほとんどであった。
 いずれにしてもそれは、移民という人々が持つ、宿命的な現地への同化のプロセスということになるのかもしれない。しかし、その辺りの葛藤は、いずれの国から来た移民の人々にとっても共通するものであったことは間違いない。