《記者コラム》16世紀に南米へ来た日本人奴隷とユダヤ教徒

BBCブラジルの記事《400年前にポルトガル人によって世界に売られた日本人奴隷の歴史》

 BBCブラジルにセンセーショナルな記事が踊った。
 いわく《400年前にポルトガル人によって世界に売られた日本人奴隷の歴史》(9月12日付、アナ・パウラ・ラモス記者)〈https://www.bbc.com/portuguese/internacional-54120476〉というポルトガル語の記事だ。東京外国語大学のルシオ・デ・ソウザ特任准教授と東京大学史料編纂所の岡美穂子准教授に取材したもの。
 冒頭には《1585年、誘拐された8歳の日本人少年は、ポルトガル人商人ルイ・ペレスに奴隷として売られた。豊後国(現在の大分県大分市周辺)で生まれたこの少年は、ペレスが最初に手に入れた5人のアジア系奴隷の一人で、「ガスパル・フェルナンデス」として知られた》とある。
 さらに《研究者らによれば、この少年は日本人によって誘拐された。当時、日本人が誘拐してポルトガル人に売る行為は一般的だった。ガルパルは、ペレス家と共に過ごして家事奉公した。彼はポルトガル語とスペイン語を覚え、家族と共にフィリピンのマニラへ連れて行かれ、ペレスはそこで、禁止されていたユダヤ教を密かに信仰していた罪で罰せられた。この商人はメキシコまで連れて行かれ異端審問にかけられ、アカプルコに到着する二日前に亡くなった》と書かれている。
 ソウザ准教授はBBC記者に対し「メキシコで1カ月調査し、奴隷たちの史料と毎日数時間向き合い、ようやくその記録が手に入った。これはただ単なる史料ではなく、搾取され、忘れ去られた一人の本物の人生と向き合っているのだと、私には分かっていた」と見つけたときの気持ちを語っている。

16世紀に伯国へ日本人奴隷が来た可能性は?

 読者の中には2009年4月の本紙連載《日本人奴隷の謎を追って=400年前に南米上陸か?!》(https://www.nikkeyshimbun.jp/2009/090409-61colonia.html)を覚えている人も多いだろう。コラム子が昨年、日本で出版した『移民と日本人』(無明舎出版)にも大幅に加筆訂正したものを再掲載した。
 1596年、アルゼンチンのコルドバで、日本人青年フランシスコ・ハポンが奴隷としてディエゴ・ロペスからミゲル・ヘローニモ・デ・ポーラス神父に800ペソで売られたことに関し、日本人青年が「自分は奴隷ではない」との裁判を起こした書類が見つかったとの件だ。
 コラム子は同連載を書いた時から「ポルトガル本国に連れてこられた日本人奴隷の一部が、その後にブラジルまで来ていたのでは」「アルゼンチンのフランシスコ・ハポンのような日本人が、ポルトガル商人によってブラジルまで運ばれていたのでは」という可能性を提起している。
 でも、BBC記事の本文には《肉体労働者を必要としていたブラジルで、ポルトガル人による植民が同じ世紀の初めから行われていたが、アジア系奴隷は主に家庭内労働に従事させられていた。リスボンにおいて、たくさんの家族は、所有する日本人奴隷を「舶来品」として見せびらかしていた》とある。
 つまり、ルシオ准教授が「ブラジルは農場労働者として黒人奴隷を入れ、ポルトガルには家庭内労働の奴隷として日本人を入れた」から、ブラジルに日本人奴隷が来た可能性はないと考えているのかもしれない。
 BBC記事で紹介されている「リスボン在住日本人として最古の記録」は、1573年に日本人女性奴隷ジャシンタ・デ・サー・ブランダオが、日本人男性奴隷ギリェルメ・ブランダオとコンセイソン教会で結婚したという書類だそう。

『大航海時代の日本人奴隷』(ルシオ・デ・ソウザ、岡美穂子著、中公叢書、2017年)

 ソウザ准教授らは2017年に『大航海時代の日本人奴隷』(中公叢書)を出版しており、そこに詳しく研究成果が記されている。とても珍しく貴重な本だ。
 日本人奴隷に関することは、噂話や断片的なエピソードばかりが先行し、なかなか本格的な研究が見られなかった。〝日本史のダークサイド〟的な印象が強いテーマなので、なかなか正統派の研究者が取っつきにくい部分があったのかもしれない。でも、日本在住のポルトガル人研究者がその難しいテーマに真っ正面から取り組んでくれたのは、本当に有り難いことだ。この研究は実に貴重だ。

新キリスト教徒と大航海時代

 『大航海時代の日本人奴隷』では、ソウザ准教授の緻密な調査により、3人の日本人奴隷がメキシコに渡っていた史料が、ポルトガル人に対する異端審問の記録の中に見つかったことが書かれている。日本人奴隷の所有者たるポルトガル人商人には、このような隠れユダヤ教徒がかなり含まれていたようだ。
 隠れユダヤ教徒は、一般的に「新キリスト教徒」(cristãos novos)と呼ばれている。スペインやポルトガルのあるイベリア半島は、8世紀にアフリカから襲来したイスラム勢力に征服され、キリスト教国家が再征服する運動「レコンキスタ」を続け、15世紀にようやく取り戻した経緯がある。
 だから「古くからのキリスト教徒」(ポ語cristãos velhos)と区別するために、レコンキスタの後にカトリックに改宗したユダヤ人やムーア人(アフリカ北西部のイスラム教徒)のことを「新キリスト教徒」と呼ぶようになった。単に「コンベルソ(改宗者)」と呼ばれることもある。

1497年、ポルトガルで衆人環視の中、ユダヤ教徒を火あぶりにする様子( Museum of Portugese Jewish History、Unknown author / Public domain)

 このユダヤ人の中には改宗したふりをした「隠れユダヤ教徒」が多くおり、その疑いがかけられた者が「異端審問」にかけられた。
 ウィキペディア「新キリスト教徒」項(10月17日参照)には《新キリスト教徒は、改宗後に洗礼名を名乗り、ヘブライ語やアラビア語の氏名を捨てた。ポルトガル王国やスペイン王国の庇護を受けた交易商人や宣教師には、少なからぬ新キリスト教徒(ないしは新キリスト教徒と目されている人々)が含まれている。彼らは大航海時代に活躍しており、スペインとポルトガルによる海外植民の尖兵だった者もいれば、先住民に対する植民者や侵略軍の非人道的な扱いを告発したラス・カサスのような者もいた。日本に南蛮文化をもたらした人たちもそこに含まれている》と書かれている。
 つまり、ポルトガルやスペイン本国で暮らしづらくなった「隠れユダヤ教徒」らが大航海時代に船に乗って商人となって活躍していた。

亜国日本人青年の所有者も新キリスト教徒

 振り返って、コラム子の連載《日本人奴隷の謎を追って》で主題にした、1596年にアルゼンチンで奴隷売買された日本人青年の所有者も「新キリスト教徒」だった可能性が高い。
 この件を最初に詳しく書いたアルゼンチン移民の大城徹三氏は著書『コルドバ』で、「さてフランシスコ・ハポンという日本青年は、当時日本との貿易が頻繁に行われていた南蛮人(ポルトガル人)によって連れられてきたことが濃厚に示されている。また正式なスペインの航路を通らず、ブエノス・アイレス港に入ってきたと推測できる。ということはスペイン国法に照らし、奴隷に処せられる条件になかった」(15頁)と書いている。
 大城氏が〝奴隷商人〟と表現するポルトガル人商人の名は「ディエゴ・ロッペス・デ・リスボア」(Diego Lópes de Lisboa)。調べてみると、ディエゴはかなりの有名人だった。
 スペインでは1478年に異端審問が開始され、1492年にはユダヤ教徒が追放されるにいたった。それに続いてポルトガルでも1497年に強制改宗令、1536年に異端審問が始まり、新キリスト教徒が急増することになる。
 『ポルトガル史』(アルベール―アラン・ブールドン、白水社、1979年、59~60頁)には《教皇庁の黙認の意図にもかかわらず、国家の宗教裁判所が一五三六年につくられ、密告制度や秘密裁判や焚刑の恐怖によって絶対的な力をふるうに至った。(中略)宗教裁判所の所業はひとが想像するほど血なまぐさいものではなかったが、それでも一四五四人の犠牲者(二世紀間に記録された二万四五二二件の裁判について)の数は秘密、密告、暴力などのように、個人の自由を犯し、文芸や科学を沈滞させた当時の世情を考えると少なすぎる感じがする》とある。
 つまり、イベリア半島でユダヤ迫害が強まる時期に大航海時代が始まっていた。ヨーロッパで宗教的な圧迫が強まる中、新キリスト教徒の一定部分は率先して、監視の少ない新大陸へ移って行った。そんなポルトガル移民商人の一人が、ディエゴ・ロッペス・デ・リスボアだった。

異端審問で焼き殺されたディエゴの父親

 ディエゴの息子ファン・ロドリゲス・デ・レオン・ピネロ(1590―1644)はリマのサンマルコス大学で神学を勉強し、ユダヤ系出自で司祭になった人物として有名だ。彼の経歴を見ると、父方の祖父(つまりディエゴの父)ファン・ロペス・デ・モレイラは1604年に異端審問でその出自を問題にされ、リスボンにおいて公衆の面前で焼き殺された。
 つまり、アルゼンチンで日本人フランシスコ・ハポンを所有していたディエゴ。その父親は、異端審問で焼き殺された隠れユダヤ教徒だった。
 さらにチリ大学ユダヤ研究センターの研究冊子『La Palabra Israelita VIERNES 7 DE ENERO DE 2005』(訳=イスラエルの言葉、2005年1月7日号)12頁には、ディエゴ自身もユダヤ教的なふるまいをしているとの疑いが常々持たれていたと書かれている。そのため、ディエゴは自ら神学を勉強し、1628年には神父の資格をとり、新キリスト教徒との疑惑を晴らすことに務めていたとある。
 チリ大学の『Los «Portugueses» en el Nuevo Mundo(新世界の〝ポルトガル人〟たち)』(Cuaderno Judaico nO 23) にも、このような家族の記述がある。
 《ポルトガル人〝新キリスト教徒〟のディエコ・ロペスは、ユダヤ教徒として焼き殺された父の二の舞を避けるために、家族でスペインに逃げたが、ちょうどイベリア半島の二王国統一のタイミングだった。異端審問から逃げるための様にみえるが、ディエゴ・ロペスはインドに向けて出発し、初めはブラジルを通り、後にその先のラ・プラタまで行き、そのブエノス・アイレスで1594年に居を定めた。翌年コルドバに転居し、そこで数年を過ごした。1604年に家族をブエノス・アイレスに呼び寄せ、マドリッドの王家からの信用状を手にした「血の純化」信者証明書により、1603年にブエノス・アイレスでの異端審問も無事に通過することができた》
 ユダヤ教徒だと疑われるだけで身の危険を感じる時代だった。フランシスコ・ハポンが神父に売られた年は、ディエゴがコルドバにきた翌年だ。

それならブラジルにも?

『Serafim Leite – Historia de Companhia de Jesuita no Brasil』333ページ「アフリカ人奴隷が不足したとき、東洋系人種、インド人、モロッコ人をリスボンに送った」という一節

 フランシスコ・ハポンは新キリスト教徒のポルトガル人商人の手により、アルゼンチンまで連れてこられた。この商人は、アルゼンチンの前にブラジルにも住んでいた。アルゼンチンに他にも同じような日本人がいた可能性が高いし、同じような動機やルートで、ブラジルにきていた日本人青年もいても不思議はない。むしろ「いた」と考える方が合理的ではないか。 
 16世紀後半、ブラジルのバイーアやペルナンブッコでは、サトウキビ栽培と砂糖工場が大規模に経営されるようになり、大資本をもった貴族や金持ちがやってきていた。その中には、ポルトガルやスペインから迫害を免れた「新キリスト教徒」が大勢混じっていたことはよく知られている。彼らの使用人の中に、もしかしたら日本人奴隷がいたかもしれない。
 あるブラジル人歴史家に相談したら『Serafim Leite -Historia de Companhia de Jesuita no Brasil』を紹介された。ポルトガル人イエズス会士の歴史家セラフィン・レイチ神父(1890―1969)の著作で、1538年から1563年の間に、ブラジルのイエズス会神父と本国のイエズス会の間でやり取りされた書簡集および、そこからひもといたブラジルにおけるイエズス会の歴史を書いた大作だ。

奴隷船の内部(Johann Moritz Rugendas / Public domain)

 一部しかのぞいていないが、興味深い内容があった。イエズス会士が1549年に来る以前から、ブラジルには植民者が持ち込んだ黒人奴隷が働いており、「一人の黒人奴隷は、インディオ4人分の働きをすると住民は考えている」「1528年以前だけで4500人の黒人奴隷が運び込まれていた」「アフリカ人奴隷が不足したとき東洋系人種、インド人、モロッコ人をリスボンに送った」(第1巻333ページ)などとも書かれている。東洋系の奴隷がブラジルにもいた可能性は捨てきれない。
 更に、初期のブラジル植民地には布教師と少数の植民者しかいなかったことから「女性がたりない。孤児をもっと送ってほしい」などの要請が書かれていた部分もあり、リスボンから日本人奴隷の孤児が送られた可能性もないとはいえない。
 「1600年前後にブラジルにも、日本人奴隷が連れてこられていた可能性」を調べる研究者に出てきてほしい。(深)