中島宏著『クリスト・レイ』第64話

「その辺はちょっと違うわね。それはマルコスの誤解じゃないかしら。誤解という言葉が悪ければ、それは解釈の違いというふうにも言えるわね。つまりね、私が言いたいのは教会というのは絶対的な存在ではなく、最終的な目的のものでもないということなの。
 人によっては、教会がなければ信仰が成り立たないという意見もあるけど、私は必ずしもそうではないと思うの。もちろん、教会は重要なものだし、たとえばキリスト教の場合をとってみても、それがなければ未開地での布教はあり得なかったということは事実でしょうね。神父が説教する場も、洗礼する場も、人々を導く場も、すべて教会が担ってきたし、そのことはこれからもずっと続いていくことは間違いないでしょう。
 ただ、それらのものは言ってみれば表面的なことであって、ある意味でそれは手段に過ぎないというふうに私は考えるのね。
 教会が象徴的なものだと考えるのは、そういう意味でのことなの。キリスト教としての儀式は、すべて教会で執り行われるから、そこが中心ということになるけど、でも、そこにすべてのものがあるかというと、決してそうではないというのが私の持論でもあるわね。神に祈りを捧げる場所は教会であることには間違いないけど、じゃあ、そこにしか神は存在しないかというと、そんなことはないでしょう。
 神は、言ってみればどこにも存在するもののはずよ。教会を遠く離れた所でも、まったく宗教の匂いがしない所でも、神は存在し続けるわけでしょう。それが、昼であろうと夜であろうと関係なく、時間にも制約されずに存在するわけね。
 ということはね、マルコス。神は、教会という限られた空間だけに存在するのではなく、私たちの日常のどんな所にも、どんな時にも存在しているということになるはずよ。そこのところを私は言いたいの。教会が、ひとつの手段を意味するものであり、象徴的なものと見なすのは、そういう理由からなの」
「なるほど、その考えは僕にも十分納得できる感じです。教会というのは一種の器というふうにもみなせるわけでしょう。器であれば、時によってはいっぱいになることもあるし、逆に、空っぽになることだってある。そのどちらが本当の姿かと問われれば、器ということに限れば、それはどちらも本来の姿ということにもなるね。うーん、何だか哲学的な話になってきたけど、アヤが言いたいのはつまり、神と教会とをいつも結び付けて考える必要はないということですね」
「たとえばね、私たちの先祖が、徹底してキリスト教を隠し通したという点にも、そのことが言えると思うの。現実に、あの迫害された時代に、隠れキリシタンの人たちが教会を持つということ自体、まったく考えられなかったことでしょう。それをすれば、私たちの先祖一族すべてが、抹消されるということになったわけね。
 だから、教会というものを絶対持つことはできなかった。いえ、それは教会だけでなく、私たちにとって一番大切な、キリストの像すらも持つことを許されなかったということでしょう。つまり、そこには象徴的なものさえ存在することができなかったということになるわ。