特別寄稿=16世紀の日本人女性奴隷哀史=サルバドールに「女官」いた?=サンパウロ市ヴィラカロン在住 毛利律子
「16世紀ごろに、日本人が奴隷としてヨーロッパ人に売られていた」。このような歴史的事実を、現代日本人がどのくらい知っているだろうか。
去る10月20日付けニッケイ新聞「樹海」拡大版、深沢編集長による「16世紀に南米へ来た日本人奴隷とユダヤ教徒」を読んだ。「南米に渡った日本人奴隷」は深沢氏のライフワークの一つであると拝見している。
まだ移住者して10年ほどの私は、このような史実を、ブラジル・サンパウロ市の朝の新聞紙上で読むのである。このようなことが関心事の一つになることは、現代日本国内の一市民生活の当たり前の朝においては、まずありえないことだ。
私は、2011年4月からサンパウロで暮らし始め、日本で所属の研究学会に報告論文として、(1)「野口英世のブラジル滞在中の黄熱病研究」、(2)「黒いローマの歴史、シンクレティズム(Sincretismo:宗教混淆)の歴史」、(3)「奴隷貿易とユダヤ移民」というテーマで、2013年から15年にバイヤ州サルバドール市内バイヤ大学、諸研究機関、レシフェ、ジョアン・ペソアのパライバ州立大学等を訪問し、聞き取り調査をした。
ブラジルに来たばかりで、まだポルトガル語も全くできず、右も左も分からない。単独での、大胆で無謀な冒険であったが、訪れた先々でブラジル人からこの上ない待遇を頂き、ブラジル生活での幸運なスタートになった。
衝撃の「女官」と呼ばれた日本人奴隷
サルバドールで案内してもらった中年の白人男性のベテランガイドは、英語が達者で、当方の目的と意図をよく理解してくれたので、彼の人脈を通して、一般的なガイドコースを外れた、彼が自負するところの「歴史の奥に案内」してくれた。
成果としては「黒いローマ」の所以を、有名教会の奥深くに入って見聞し、「サルバドールのカーニバル・ブロッコ、フィーリョス・デ・ガンジー、彼らはなぜガンジーの息子たちと名乗るのか」を知るためには、「フィーリョス・デ・ガンジー本部」の副理事長ジョゼ・フランシスコ氏に直接インタビューして、その功績を知ることができた。
野口英世が滞在して研究生活をした、オズワルド・クルス研究所バイーア支所、現在「ゴンサロ・モニッツ、LACEN中央研究所」を訪ねて遺品の研究器具を写真に収めたり、職員から有益な情報を聞き、原稿を纏めるにあたっては、職員の一人の女史からの資料提供など、至って寛大な協力を受けたのであった。
バイーア連邦大学医学部には、実際に野口が講義をした講堂があり、図書館の正面玄関にはオズワルド・クルス研究所の創設者オズワルド・クルス博士と並んで飾られたレリーフが有名である。
隣接する資料館では、貴重な資料の閲覧ができた(「フィーリョス・デ・ガンジー」、「野口英世」に関する簡略化した拙稿は、ニッケイ新聞に掲載された)
さて、少し離れた場所にある市の観光課(Secretaria de Turismo)を訪ねた時のことであった。
アフリカ移民のことについていくつか質問をしていると、一人の熟年の男性職員が話に加わり、「奴隷市場に日本人の女奴隷がいた、と聞いたことがある。その女はポルトガル人の船乗りの女だったが、陸に上がったらファゼンデイロの召使としてバイーヤの奥地に入ったそうだ。その男性は、日本人女性奴隷を『女官』と呼んでいたと聞いたことがある」と話をしてくれた。私はその言葉の字を書いてくれというと、「jyokan」と綴った。この言葉が「女官」を意味しているかどうかは不明である。
私はひどくおどろいて、詳しいことを知りたいと食い下がったが、「当時の書類はすべて焼失している」とのこと。農園主や大金持ちも政府からの通達で、過去の書類は全て廃棄している。しかし、古書、私家本、新聞社などから追跡できるかもしれない、と教えてくれた。
誰から聞いた話かを聞いたところ、30年ほど前に下町(バイーヤの町の構造は上町=歴史地区と下町がエレベーターで繋がっている)の税関で耳にしたという。そのころは多くの日本人移民がバイーヤの下町にいて、根拠のない話が飛び交っていたと述べた。
しかしこれらの、
●日本女性が奴隷としてバイーヤの奴隷市場にいたこと。
●なぜ「女官」と呼ばれたのか。その人の出生は一定の身分にいた女性だったのか、
●「jyokan」という発音を聞いて私は「女官」という言葉を当てたが、日本語なら 「nyokan」と発音されるべきか。女官=「jyokan」は韓国語の発音になるのか。韓国には当時のヨーロッパ人との間での人身売買の歴史的事実の確認作業が必要である。
衝撃的な謎は、のどに刺さったホネのように心に残ってままであるが、様々な理由から、私はそれらの調査研究をあきらめ、放棄してしまったことを今では悔やんでいる。
奴隷の逃亡地に咲いていた花「ファベーラ」
サルバドール滞在最後の日に、ガイドが「ファベーラの語源」となった絵画を展示しているレストランに案内してくれた。
彼の詳細な説明から、300年前にバイアのキロンボが逃げ込んだ沼地の周辺に咲いていた長い棘のある、白い花の名前が「ファベーラ」であることを知った。
パライバ大学図書館司書による「黄金の国チパングの女たち」の話
ジョアン・ペソアは、ブラジル北東部、西アフリカに最も近く、国内では一番最初に日の出が見られる町と知られている。
この町のパライバ大学文学部教授のゼリア・ボーラ女史は日本で所属の同じ学会の会員ということもあり会見の約束は直ぐについて、ブラジルの奴隷制の歴史を聞くことになった。
空港に出迎えてくれた教授の娘の運転する車でパライバ大学に向かった。インド人の血を引く女史の息子の名前はシッダルタ(釈尊の名前にちなみ?この名前の由来はいずれ確認したいと思っている)、娘の名前はロータス(蓮のこと、で法華経は、スートラ・デ・ロータス。しかし、彼女はヒンズー教徒である)と名乗っていた。
大学の構内は広大で、女史の話では講義中に猿が出て来ることもあり、夜間は豹に気を付けなければならないそうだ。構内には大きな木が広い木陰を作り、絶滅危惧種に登録されているパオブラジルの苗木がいたるところに植え付けてあった。
図書館には奴隷制についての資料は豊富に残されていて、アフリカ人奴隷研究における充実した資料集めができた。
ボーラ教授と、二人の司書との雑談の中で、「まさか、同時期に黒人奴隷とともに東洋からの奴隷もいた事実は無いよね」と問うたところ、司書が、ポルトガルには当時たくさんの日本人の女がいた、といった。
「チパングという国からきた女たち」
その時の司書の一人が、日本を「チパング」といった。私はそのことを指摘すると、大変得意げに、「自分は『東方見聞録』の英語版を完読したことがある」と言うのだった。改めて、マルコ・ポーロの書いた『東方見聞録』で確認すると、日本国をチパング、中国語のジーペン・グオの訛り、一般的にはジパングと称されることが多い。
そして、その中に書いてあるように、「16世紀以降、ポルトガルでは、日本人の女性は色が白く、とても働き者で、重宝されていた」と語った。そのような話は、これまでにも歴史書でも読むことがあるが、
「ブラジルにも連れてこられたのか?」と聞くと、
「それはあり得ないことではない。当時のサルバドールの市場には、世界中から集められた奴隷がいたからね」と、語っていた。
しかし、関連資料を見つけるのは難しい。時間をかけないといけない、とのことであった。その時に、彼が取り出してきて見せてくれた、古い、保存状態の悪い、宗教画集の中に、船倉に繋がれた裸の日本人女性奴隷の絵画があった。
壇上には、外国の女性が奴隷としての値踏みをされている情景が書かれていて、ほかのアフリカ奴隷を描いたおぞましい絵とは印象が全く違っていた。
静止画とはいえ、数人の日本人女性がシーツを纏って順番を待っている、そのおびえた顔や、肌の白さが痛々しく、忘れられない絵画の一つとして記憶に残っている。作者も知らず、時代も知らない一枚の絵なので、現在、これほど便利なパソコンの検索システムを使っても、同じ絵画を見つけることはできない。
パライバ大学の図書館に出向かなければ見れないものの一つということであろう。
改めて『東方見聞録』や多くの当時の歴史書を再読することにより、バイーヤの人々の断片的な話の中に、多くの知られざることが潜んでいるように感じられる。
ひとつ残念なことに、これらの研究所や遺跡巡りで痛感したことは、保存状態の劣悪さであった。
いたるところ、不備だらけで、説明もそれぞれ食い違うことが多く、追跡調査はよほど慎重・厳重にしなければならないこと。また、研究員も、高度な歴史研究に関わっている人を尋ねないといけないことなど、個人レベルでの研究調査の限界を思い知らされた。
しかし、ブラジル人の特性ともいえる寛大さ、自分の知っている知識は全て教えてあげよう、どこまでも案内してあげるという、開放的で親愛のこもった態度は、非常に好感を抱いている。きっと、ブラジル人の偉い先生方も、概ねこのように接してくれるのではないだろうか。
ジョアン・ペソアの日本人祭り
ジョアン・ペソアは国内有数の観光地ということであるが、当時(5年前)はサンパウロの投資家による高層マンションの建築ラッシュで、町中の自動車ディーラーの店は圧倒的に高級外車が並んでいた。
歴史地区を抜けると、大西洋の広い海原を望むホテルやレストランが立ち並び、観光客でにぎわっていた。
偶然にも、日本人祭りが開催されていて、参加することができた。会場には、当時のレシフェ領事館の関口ひとみ領事事務所長(当時)が来賓で出席し、高齢者・要介護者向けのペットロボ『パロ』を抱っこして紹介していたのがとても印象的であった。彼女は「こういうことも領事の仕事の一つなんだすよ」と笑顔で気さくに語っていた。
ジョン・ペソアの日系社会の規模はそれほど大きくないが、入植した親は子供に農業のような辛い仕事はさせたくないと学問を奨励した。その結果、専門職に就く人が多く、パライバ大学にも日系人教授が多く活躍しているということであった。
パライバ大学に勤務する現役の教授も数人参加していたが、皆さんがとても健康的で、充実した生活を送っているようであった。先祖の残した遺産の上に安住することなく、新たに開いた道で日本文化の継承とともに、日本人の誇りを忘れず地元地域の発展に貢献している姿が忘れられない。
再会を期して別れたが、会えずじまいで、今に至ったのは心残りの一つである。
それから月日は流れ、今、深沢氏の記事を読み、これまでに発表された研究記事に当たり、多くを学んでいる。そして、これを機に過ぎ去ったバイーヤでの様々な記憶が蘇った。私は、何か大切な落とし物をしたような焦燥感と、取り戻せない後悔を感じつつ、急ぎバイーヤの当該者に連絡を取ってみたが、今のコロナ禍の影響なのだろうか、誰一人とも連絡が付かなかった。
レシフェで実際に目にした多くのコンベルソの遺跡や書物から学んだ史実。サンパウロ市、ユダヤ人協会本部で直接伺ったアルベルト・ミルコビッチ(Alberto Milkewitz)会長の貴重な談話と資料文献調査室で読んだ「ブラジルのユダヤ人」の重厚な歴史。
サントスやリオ・パラチー地域での初期移民の歴史など、これらすべてを、迂闊にも、一瞥のままで取り残しているが、ブラジルにおける歴史探訪は、興味をそそられることばかりである。