中島宏著『クリスト・レイ』第73話

 この平野植民地は、第一回移民の時に通訳として移民たちと共に現場であるブラジル人農場に入り、彼らと苦労を共にした平野運平という人物が、独立自営の集団植民地として開拓を始めた所である。
 笠戸丸で、集団としての日本人移民たちが初めてサントス港に着いたのは、一九0八年の六月一八日であったが、この時の七百人余の移民たちは、その大半が、サンパウロ市から北方約三百五十キロにあるリベイロン・プレットの町の近郊に配耕されたのだが、その中のグアタパラ農場に移民たちと共に入ったのが、平野運平であった。
 ブラジル人農場主と、そこに雇われた、まったくこの国の事情が分かっていない日本人移民たちの間に入って、平野は通訳としてのみでなく、双方の交渉役、調停役というようなことまで引き受け、異国でのかつて経験したことのない苦労を味わうことになる。
 その甲斐あって、一応、七年に亘るこの難しい仕事を勤め上げた頃は、この農場に働いた人々を中心に多くの支持者を得、移民の人々から高い評価と人望を得るところとなった。平野運平はこの時の経験から、これからの日本移民は、独立自営の形を持つ集団植民地を持つ必要があると考え、サンパウロ初代総領事であった松村貞雄の賛同を得て、このノロエステ線の沿線に、新たな植民地の建設を思い立ち、それを実行していった。
 そして、一九一五年八月に、平野植民地が設立され、その開拓が始まったのである。
 平野自身が、青年先発隊を率いてプレジデンテ ペーナ駅(現カフェランジア)に到着し、新しい植民地の建設はスタートした。面積およそ千六百アルケール(約三千九百ヘクタール)の原生林を、それぞれが斧一本だけで切り拓いていくという、それは途方もない作業であった。
 ここに入植した人々のほとんどは、平野が一緒に苦労したグアタパラ農場で働いていた人々であって、平野の人物に傾倒し、彼の言う目標と理想に共鳴し、この平野植民地にやって来たのである。
 ここでは何といっても独立自営という、それまで雇われ人としてしか働いたことのなかった人々にとっては夢のような、理想的な生活がある。あるはずであった。
 いよいよ自分たちの手で、自分たちの農場が出来るのであれば、少々の苦労はものともしないという気概と高揚感を、このとき彼らはあふれるほどに持った。
 だが、現実はあまりにも厳しすぎた。
 この平野植民地は確かに土地も良く、処女地ということで原生林伐採後の畑には,それまでいたグアタパラ農場を上回る収穫が期待できた。そこまではよかったのだが、その後の展開が思わぬ悲劇へと結びついて行くことになる。
 この植民地は、チエテ川の支流であるドウラードス川に面しており、この川に沿って広大な湿地帯が広がっていた。これを目にしたとき、入植した日本人移民たちは、こここそ農業の理想郷だと信じて疑わなかった。