中島宏著『クリスト・レイ』第75話

 喜び勇んで湿地帯の開拓に挑んで、米作を実施していった移民たちは、その一帯にブラジル人たちが誰一人住んでいないことに気が付くこともなく、そこに疑問を感じることさえも一切なかった。ここに入植した日本人たちは、競うようにしてこの湿地帯に家を造り、そこに住み着いていった。そして、そのことが結果として致命的なものとなった。
 開拓が始まった年の翌年、一九一六年に入って間もない一月に異常事態が表れ始める。
 稲そのものの成長は非常に良く、この土地での米作の選択は間違っていなかったことを証明するような結果が出始めていた。作物そのものには何の問題もなかった。この状況ではまず、大成功といえる収穫と成果が上がるはずであった。
 ところが、問題は人間の方に起きた。
 本格的な雨季の到来となったこの一月前後は、一年でも最も雨量の多い時期である。そして、まるでこの時期に合わせるようにして、人々がバタバタと倒れ始めたのである。高熱が急に出て、震えの症状が止まらなくなり、嘔吐を繰り返し、下痢症状が出、体力の消耗が激しくなり、急速に衰弱していく。
 日により、あるいは時間帯によっては一時的に微熱程度に下がるが、時間が経つとまた高熱がぶり返し、コントロールが効かなくなる。その症状を交互に繰り返していく間に衰弱が激しくなって、驚くほどの短期間に命を落としてしまうということが連続的に起きていった。
 このときまで、平野植民地の日本人はマラリアという病気を知らなかった。
 熱帯、亜熱帯に発生するこの病気は、病原体がマラリア原虫と呼ばれるもので、ハマダラカという蚊を媒介して人間に感染する。このマラリア原虫は低地の湿度が高い所を好み、特に高温多雨の夏の環境下では猛烈な勢いで繁殖を繰り返し、同じような時期に発生するハマダラカの増殖に便乗し、一気にその数を増やしていく。
 低地帯、それも特に湿地帯が危険とされ、ブラジルの人々がそこに近づこうとしないのは、その経験からマラリアの恐ろしさを十分に知っていたからである。伝統的に彼らは低地帯や湿地帯近くには住まない。彼らにとってそのことは、死に繋がることを意味していたのである。
 平野運平たちが、勢い込んで湿地帯を開拓していったとき、日本人たちは誰もこのマラリアの病気のことは知らなかったし、その存在すら想像していなかった。悪いことに、この場所での作物が期待以上の出来映えであったために、彼らは驚喜し、さらに多くの入植者をグアタパラ農場から呼び寄せた。
 そして、このマラリアの症状が出始めたときは、すでに八十家族以上の人々がここに転住して来ていた。結果として、ここに入ったほとんどの家族が犠牲者を出すという最悪の事態になっていったのである。皮肉なことに、それらのことはすべて米作りを目指したことによるものであった。
 この年、一九一六年の一年だけで、平野植民地ではマラリアで八十人あまりの犠牲者が出た。しかも、それは収まるどころか、ますます死亡者が増えて行くという傾向を辿った。平野は,その原因がマラリアだと分かってからは、唯一の薬であったキニーネを求めて、あちこちの町を奔走したが、当時はそれほど簡単に手に入るものではなかった。