知っておきたい日本の歴史=徳力啓三=(20)

《資料》アメリカの日本への最後通告「ハル・ノート」

 当時のアメリカのハル国務長官の名前で彼が日本に突き付けた文面であったのでこの名前がついた。実際に、ハル・ノートを作成したのは、ハリー・ホワイトで、コミンテルンのスパイであったといわれている。その内容の一部を要約すると、「3項-日本は中国及びインドシナから一切の軍隊と警察を引き上げよ。4項-日本は蒋介石政府のみを中国の正統な政府と認めよ」。


樋口季一郎(Unknown photographer, Imperial Japanese Army, Public domain, via Wikimedia Commons)

《資料》*ユダヤ人を救った日本人 樋口季一郎と杉原千畝

 1938年、ソ連と満州の国境の町にビザを持たないユダヤ人難民1万1千人が到着した。ハルピン特務機関の樋口中将は、満州国参謀長の東条英機大将の了解の下、満州鉄道に依頼し、救援列車を出し、上海などに逃げる手配をした。また第二次大戦の始まった1940年7月、リトアニアにある日本領事館に、ドイツ軍に追われていたユダヤ人6千人が集った。領事代理の杉原千畝は徹夜で手書きのパスポートを作り、合法的に出国させ彼らの命を救った。戦後この二人の勇気ある行動は、イスラエル政府に知られ、感謝・表彰された。


大東亜戦争(太平洋戦争)

 1941年12月8日、日本海軍はアメリカのハワイにある真珠湾基地を奇襲し、アメリカの戦艦4隻を撃沈、4隻を撃破し基地航空部隊に全滅に近い打撃を与えた。この作戦はアメリカの太平洋主力艦隊を撃破し、太平洋の制海権を獲得することを目指した。
 同日、日本陸軍はマレー半島に上陸し、イギリス軍を撃破しつつ、シンガポールを目指して進んだ。日本は英米に対して宣戦布告し、この戦争は「自存自衛のための戦争である」と宣言した。
 又この戦争を「大東亜戦争」と命名した。ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告し、第二次世界大戦は、日・独・伊の枢軸国と米・英・蘭・ソ・中の連合国が、世界中で戦う戦争へと拡大した。
 対米英開戦をニュースで知った日本国民の多くは、その後次々に伝えられる戦果に歓喜した。他方、アメリカ政府は、日本の交渉打ち切りの通告が真珠湾攻撃よりも遅れたのは卑劣な[だまし討ち]であると自国民に宣伝した。

大東亜戦争での激戦の場面(Tompotderivative work: F l a n k e r, CC BY-SA 2.5 , via Wikimedia Commons)

 日本の真珠湾攻撃は軍事的には成功したが、今まで戦争に反対していたアメリカ国民を「リメンバー・パール・ハーバー」を合言葉に、対日戦争に団結させた。
 真珠湾の大戦果の2日後の12月10日、マレー沖の海戦で、イギリスの誇る東洋艦隊の主力艦プリンス・オブ・ウエールズと戦艦レパレスが日本陸軍の航空部隊によって撃沈された。
 1600年に東インド会社が設立されて以来、340余年に及んだイギリスのアジア植民地の最大の砦が一挙に吹き飛んだ。
 1942年の中ごろまでの日本軍の戦果は目覚しかった。開戦と同時にマレー半島に上陸した陸軍は、僅か70日で1100kmを自転車を使って南下し、半島南端にあるシンガポールに築かれたイギリス軍のアジア最大の要塞を陥落させた。
 果敢な進撃で、たちまちの内に日本は広大な東南アジア全域を制覇、占領した。米国と欧州各国の軍隊をアジアより追い落とした。
 1942年6月ミッドウエー海戦で日本の連合艦隊はアメリカの海軍に敗れ、航空母艦や多くの兵員を失った。この後、アメリカ軍は反撃に転じた。日本は制海権を失い、輸送船はアメリカの潜水艦によって次々に沈められ、補給路を絶たれた。

転機となったミッドウェー海戦。炎上傾斜する三隈(Naval History & Heritage Command, Public domain, via Wikimedia Commons)

 日米の生産力の差が次第に表面化し、日本軍は武器・弾薬に限りある中で、苦戦を強いられた。ヨーロッパでもドイツは次第に劣勢となっていった。
 ヨーロッパ戦線では1942年を境に、連合軍が反撃に転じた。1943年にドイツ軍はソ連のスターリングラードに攻め込んだが、敗退した。同年イタリア軍が降伏した。1944年にはドイツ軍がパリより撤退した。


《資料》大東亜戦争(大アジア戦争)

 日本はこの戦争を大東亜戦争と呼んだが、アメリカは戦後、太平洋戦争という名称に統一した。日本はアジアの白人による植民地を救うための戦争と考えていたので、アメリカはその意図を消すため、戦争名を変えた。


《資料》大東亜戦争の展開概略

①1941年12月8日・日本軍のハワイ攻撃 ②1941年12月10日・陸軍航空隊による英国東洋艦隊撃沈 ③1942年2月15日・日本軍のシンガポール占領 ④1942年6月5日・ミッドウエー海戦で日本軍は4隻の航空母艦を失う。
⑤1943年2月7日・ガダルカナル島より日本軍撤退。 ⑥北太平洋のアッツ島より日本軍撤退。 ⑦1944年6月5日・マリアナ沖海戦。 ⑧1944年7月9日・マリアナ諸島サイパン島で日本軍最初の玉砕 ⑨フィリピンの近くレイテ沖海戦 ⑩1944年11月27日・パラオ島にて日本軍玉砕 ⑪1945年3月7日・硫黄島にて日本軍総玉砕。 ⑫1945年3月~6月・沖縄にて民間人を巻き込む戦闘。


大東亜会議とアジア諸国

 日本の緒戦の勝利は、長年白人の植民地支配に苦しんできた東南アジアやインドの人々に独立への夢を与えた。日本軍の破竹の快進撃は、現地の人々の協力があったからこそ可能であった。
 親日国であったタイに加え、日本軍の捕虜となったイギリス軍のインド人兵士を中心としてインド国民軍(INA)が結成された。インドネシアでもビルマでも、日本軍の指導で軍隊が作られた。この軍組織が後のアジア各国の建国(独立戦争)の中核となった。
 大東亜会議が1943年11月5日~6日、日本の呼びかけにより東京で開催された。以前よりアジア各地の独立運動家が日本に亡命し、多くの日本人がこれを支援していた。戦争が始まると日本は、占領下に置いたアジア各国に戦争の協力を求めた。現地の人たちは将来の独立を期待し、これに応えた。大東亜会議は初の有色人種の国々だけの国際会議であり、その結束を示した。
 また白人の大西洋憲章に対して、「大東亜共同宣言」を発し、「大東亜共栄圏の建設」を戦争の一大目標に掲げた。
 日本にとってのアジア進出は、戦争遂行に必要な資源の入手とアジア各国の独立のもとに新しい経済圏を作ることにあった。
 日本は「アジアの解放」の為に、欧米の白人諸国の植民地守備軍と戦わなければならなかった。戦場となったところでは、損害がでたが、日本軍は占領した各国で、軍政をしき、小学校を建て、技術訓練をし、民衆を奮い立たせる教育を行った。
 また現地の指導者らには、自国を守るための訓練をし、若者には軍事教練まで施し、欧米諸国からの独立を達成するための準備を行った。彼らもまた日本の軍政統治に協力した。
 しかし、欧米諸国の植民地政策の手先となっていた人々の中には、日本の軍政に反発する人もおり、反日活動も起こった。食糧不足や強制労働に不満を持った現地人もいたが、日本軍が終戦で撤退した後、旧宗主国のイギリス、フランス、オランダは直ちに再支配するために、旧植民地に戻ってきた。
 しかし、これらの地域の国々は、再支配しようと戻ってきた旧宗主国の軍隊に立ち向い、果敢な抵抗を試みた。彼らは、日本軍が教えた独立への戦いをおのずから実践し、自らの力により独立を勝ち取っていった。また日本軍の将兵の中には、終戦後も現地に残り、独立戦争を共に戦った日本軍人が多数いた。


《資料》アジアの人々を奮い立たせた日本の行動・『日本人よ! ありがとう』より

 「日本軍は、長い間、アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないとあきらめていたアジアの民族に驚異の感動と自信を与えてくれました。長い間眠っていた『自分たちの祖国を自分たちの国にしよう』という心を目覚めさせてくれたのです。私達はマレー半島を進撃してゆく日本軍に、歓呼の声をあげました。敗れて逃げてゆくイギリス軍を見たときに、今まで感じたことがない興奮を覚えました」
マレーシアの独立運動家・元上院議員のラジャー・ダト・ノンチック氏の著書より


《資料》 日本を解放軍としてむかえたインドネシアの人々

 350年間にわたってオランダの植民地とされて来たインドネシアには、昔から一つの伝説が口伝えに語り継がれてきた。
 ジャワ島にあった小さな王国がオランダにより滅ぼされた時、ジャワの王様・ジョヨボヨが次のような予言をしました。
 「今に北の方から黄色い巨人が現れて、圧制者を追放し、トウモロコシの実がなるころには立ち去る。そうして我々は解放される」(ジョヨボヨ王の予言)
 1942年、日本軍がインドネシアに進駐すると、人々は道端に集り、歓呼の声をあげて迎えた。日本はオランダを追放してくれた解放軍だった。実際、日本の3年半の占領期間に、郷土防衛義勇軍(PETA)と称する軍事組織の訓練、中等学校の増設、共通語の普及など、後の独立の基礎となる多くの改革が日本軍の手でなされた。
 インドネシアでは約1千名の日本兵が残留し、インドネシアの独立のためにPETAとともに4年半にわたって戦った。この独立戦争で約700名の元日本兵が戦死した。


《資料》 日本が独立を認めた国々

 1943年・ビルマ、フィリピンを独立させ、自由インド仮政府を承認した。
 1945年・ベトナム、カンボジア、ラオスを独立させた。


《資料》大東亜会議(1943年11月東京)に出席した国々

大東亜会議に参加した各国首脳(帝国議事堂前にて記念撮影)。左からバー・モウ、張景恵、汪兆銘、東條英機、ワンワイタヤーコーン、ホセ・ラウレル、スバス・チャンドラ・ボース(Unknown author, Public domain, via Wikimedia Commons)

 日本の東条英機首相、ビルマ(現ミャンマー)、満州帝国、中華民国南京政府(重慶の蒋介石に対抗し、日本の支援を受けて南京に立てられた政府)、タイ、フィリピン、自由インド仮政府の7カ国の各国代表が参加した。


戦時下の国民生活

 第一次世界大戦以降、戦争は兵隊だけではなく、国民総出で教育、文化など全てをかけて行う総力戦の時代になっていた。日本では物資、経済、産業、交通など全ての部門を政府が統制する総動員体制をとった。
 戦争による物資の不足で、暮らしの中から綿、羊毛、皮、ゴム製品などが順次姿を消した。政府は国民運動を起こし消費節約、貯蓄増強などを国民に呼びかけた。
 戦況が悪化するに従い、国内の統制はより一層厳しくなり、多くの青年男子が招集され、戦場に行ったため、労働力の不足を埋めるための、徴用が行われた。また、多数の生徒・学生が勤労動員され、未婚女性は女子挺身隊として工場で働くことになった。又大学生までも徴兵猶予が取り消され、出征していった(学徒出陣)。
 あらゆる物資が不足し、寺の鐘など民生用の金属も供出され、生活は窮乏を極めた。それでも国民は戦争の勝利を信じ、よく働き、良く戦った。戦争末期には朝鮮、台湾の人々まで徴兵や徴用が適用された。
 1944年に入ると、戦局は日本にますます不利となり、飛行機や潜航艇を使い敵に決死の攻撃をかけるようになった(特攻攻撃=飛行機による特攻を一般に神風特攻隊という)。
 1944年7月、サイパン島が陥落し、アメリカ軍はそこから日本本土を空襲し始めた。同年年末にはB29爆撃機による民間人への無差別爆撃を開始した。爆弾投下などにより、日本国民は直接戦火にさらされるようになった。子供たちは危険を避けるため、親元を離れ、地方のお寺などへ疎開した(学童疎開)。
 1945年3月アメリカ軍は東京の下町(5km✕6km)の範囲に集中して大爆撃を加え、一夜にして約10万人の市民が焼殺された。その後も日本の大中の町200以上が焼き払われ、50万人以上の国民が命を落とした。

焦土と化した東京。本所区松坂町、元町(現在の墨田区両国)付近で撮影されたもの。右側にある川は隅田川、手前の丸い屋根の建物は両国国技館(米軍撮影, Public domain, via Wikimedia Commons)