中島宏著『クリスト・レイ』第77話

 享年三十四歳という、誠に早過ぎる死であった。
ただそれでも、この植民地の企画者で、稀に見る指導者であった平野運平の死後も、この植民地は消えることなく存続していき、一九三0年代には組合組織も出来、往年の悲劇の植民地というイメージは払拭されていった。
 ノロエステ鉄道の沿線には、カフェランジアの先にも、次々と日本人移民の植民地が造られ、新しい移民たちが入ってくることによって、この地方は急速に開けていった。
 カフェランジアから、リンス、プロミッソン、ビリグイ、アラサツーバ、アリアンサなどの町や拠点に日本人が増えていき、このノロエステ地方は、初期日本人移民の一大集団地という様相を呈していった。
 もちろん、この時期には同じ移民として、イタリアやスペイン、東欧諸国からの人々もすでに入っていたから、この地方が日本人移民だけのものということではなかったが、比率としては、この地方に偏るようにして日本人の農業者が増えていったことは事実である。
 エイトール・レグルー駅から始まっていったプロミッソンは、リンスから西へ約十五キロほどの所に位置し、そのリンスは、カフェランジアから約、二十キロ西の所にあった。つまり、プロミッソンは、あの平野植民地のあるカフェランジアからは比較的近い距離にあったのである。無論、平野植民地の悲劇は、この地方の日本人移民たちの間では誰もが知っており、彼らは、それが他人事ではなく、自分たちにも直接関連する切実な問題として捉えていた。
 ここで、このプロミッソンでの、日本人移民の植民地創設について少し述べる。
 コロニア・イタコロミーと称されたこの植民地は、一九一八年、上塚周平によって創設された。後にここが、上塚第一植民地と呼ばれるようになったのは、彼の功績を讃えてのことであった。以下、これを上塚第一植民地と呼ぶことにする。
上塚周平は、第一回ブラジル移民を扱った、皇国殖民会社の代理人としてブラジルに滞在し、最初の日本移民の人々が配耕されたすべての農場を回り、それぞれに抱えた様々な問題を一緒に解決するという仕事を担った。
 笠戸丸によるブラジルへの第一回の日本人移民は、結果として失敗であったと日本側からも、ブラジル側からも低く評価されたが、これは移民した人々と、それを斡旋した皇国殖民会社との意思疎通がまずく、情報も会社側の説明とブラジルでの現実とが、あまりにもかけ離れすぎていたために起きた軋轢が、その主な原因であった。
 当然、そのしわ寄せは皇国殖民会社の現地の代表である上塚周平に向けられた。どこの配耕先の農場へいっても、話が違いすぎるということへの抗議と苦情の連続であった。
 無理もない。短期間でお金を貯めて日本へ帰ろうという目的の人々が大半であったから、実際の現場のひどさには驚く前にあきれ果てたという状況で、そのことに対する苦情はすべて、上塚にぶつけられた。それは単なる抗議というレベルのものではなく、悲鳴に近いものであった。遥か遠くの日本から大きな夢を抱いてやって来たこのブラジルの実情は、移民の人々にとってあまりにも過酷に過ぎた。