特別寄稿=中南米に生きて60年=移民の動機と最初の生業—キノコ栽培への挑戦=元JAIDO及びJICA農水産専門家 野澤弘司=(下)

寄港地で臨機応変に観光バイト

 なけなしの携行資金U$80と、出港間際に親戚や知友からの餞別を合わせただけの所持金では、移民船で2カ月間航海する間、これから10か所余りの寄港地での飲食代、交通費や土産物を賄うには厳しいという現実に直面しました。
 そこで対処策を考えた結果、本船の寄港地はロレンソマルケスがポルトガル語以外は英語圏なので、移住者を対象に英文の観光案内パンフレットを参考にして、にわか観光ガイドで小遣いを稼ぎながら乗船中の諸経費を賄い、各寄港地では持ち前の放浪癖を遺憾なく発揮し 堪能する事が出来ました。
 北海道の炭鉱離職者の方々は退職金をしこたま携行しているので、どの寄港地でも大盤振る舞いで気前良く観光しました。
 香港ではシンガポールまで乗船する見ず知らずの金満家一族と知合い、豪勢な広東料理をご馳走になり、虎の絵で有名なタイガーバーム軟膏の発祥地にも招待されるなどの厚遇を受けました。
 マーレシアのペナンでは日本海外漁業(株)の現地責任者だった、故赤崎健一先輩を卒業生名簿を頼りに事務所を訪ね、生まれて初めての鱶鰭が主菜のペナン料理で、後輩の行く末を案じられ、私どもの門出を祝福してくれました。
 先日、日本船籍のタンカー若潮丸が座礁したインド洋のモウリシャスにも寄港しました。イギリス帝国がヘンリ−4世の統治以来久しく世界の覇権国として繁栄を維持できた背景には、インドやアラビアとの交易船を狙った海賊からの財宝の献上が不可欠で、往時の海賊の本拠地だったモウリシャスを偲ぶ海賊由来の銃砲や、財宝などを陳列した博物館や、処刑場や勇猛な海賊のキャプテンの墓地などの史跡が保存されていました。
 アフリカ沿岸の港湾都市の銀行や商店の多くはターバンを巻いた、いかついインド人の守衛が銃を肩に店頭に佇んでいました。港湾労働者の現地人は着用するシャツも靴も無くジュートの麻袋の底には頭のサイズの穴、両面には腕が通る穴を開けこの袋をかぶりシャツの代用としていました。
 道行く人の殆どは素足で、ゴム草履1足と30kgほど入った袋一杯のオレンジと交換できるなど貧しさを露呈していました。ダーバンでは街の柔道愛好家に誘われ親善試合をしましたが、先方には有段者が多く、当方は学生時代や青年団で少々たしなんだ程度の素人の寄せ集めで完敗しました。
 ケープタウンの港では南極観測船の「宗谷」が毎年末には最後の補給地として寄港するとの事でした。テーブルマウンテン行きや市内バスは前後に仕切られ、有色人は後部から乗降しました。日本人は「WHITE」の部類でしたが、たまたま香港で求めた鳥打ち帽にサングラス、ゴム草履の出で立ちで外出した移住者は黒人扱いされたと仕切りに憤慨していました。
 歩道際や公園のベンチの背もたれやトイレには「EUROPEAN ONLY」と明記されたサインが掲げられ、厳しい人種差別が浮き彫りにされていました。アフリカ沿岸の寄港先での本船は、農機具、鉱物のインゴット、穀類、家具を積み降ろしながら、港によっては早朝に接岸して荷役を終え、夕刻には出港したり、3日も停泊するなど万事貨物の荷役優先の運行でした。

橋本吾郎先生との日頃の親睦に対し、先生の生涯の植物分類の集大成『ブラジル産薬用植物事典』をご寄贈いただき祝杯

憧れの南米大陸に上陸

 いよいよ最終寄港地のリオでは、山頂に建立された巨大なキリスト像が両手を広げ我々を迎えてくれ、長途の旅をねぎらってくれているかの様でした。
 タラップから埠頭に降りた南米大陸への第一歩は、長年抱いてきた抱負の達成感と、これからどうするかの使命感と期待感が交差し、感無量の余り傍らの鉄の塊の係船柱にしばし呆然と寄り添い感涙にむせびました。
 正午までの上陸が許可されたので市内を見物しました。これまで寄港して来た英国の植民地とは異なり、市民の体躯や顔立ちは中肉中背で、彫りも浅く中間色で我々に似た印象でした。目と目が合い微笑んだので友好の証かと笑い返すと、我々の草履を指さしながら笑いこけました。
 当時のブラジルにはゴム草履が未だなかったので、日本人は牛の扁平なベタ足の様な履物を履いてると大笑いした、そんな大らかな時代でした。
 目的地のサントス港には横浜から予定通りの60日目の10月10日の早朝、38番ゲートに着岸しました。移民の入国査証と携行荷物の書類審査の為、下船は午後からとなり荷物の準備をし、まず横浜出航以来冷蔵庫に日本食材等を保管してくれた航海士にはそれなりの謝礼をし、航海の無事を共に悦び合いました。
 種菌には黄色い水滴が散見されましたが、心配したほど老化してないので充分使えると思いました。南アフリカで求めた原住民ズール族のウゴンマダンスの民芸品の木彫りと種菌は一緒に包み妻が抱え、船倉扱いの荷物を積んだ台車は人夫が引っ張り我々の後に続きました。税官吏は荷物よりも我々を垣間見るなり通関許可書に認証スタンプを押してくれ、携行品は無事に通関しました。
 サントスでの下船時の所持金は、各寄港先でのにわか観光ガイドで稼いだので、未だU$28が残っていました。税関前には鹿児島県出身の長老と同行の数人が出迎えてくれました。
 私の呼び寄せ人は、金魚の養殖を専業としていましたが、私が支援を期待することは不可能な状態だったので、独立独歩、我が道を往くことにしました。
 また、当面の生活費は日本から携行した海産物や日用品を処分し金策しました。その後ブラジル二世の花嫁を両親に顔見せに日本に一時帰国して、ブラジルに戻る再渡航の移民船で知合った大野夫妻の厚情に甘え、サンパウロ市内のご自宅に居候しました。
 運良く、寄寓先でブラジルに進出した日本企業の社長の知己を得、引き続き60km程離れたモジ・ダス・クルーゼスに工場のある社長宅に居候する幸運に恵まれ、心ある先達の温情と慈悲を甘受しながら転々と居候しました。

「キノコ移民」に転身

 そして社長から近隣で、柿、ぶどう、かんぴょう等を栽培の傍ら、長らくマッシュルーム栽培に挑み試行錯誤していた旧制鳥取高等農林学校出身の篤農家、瓜生知助を紹介されました。
 これにて私は日本仕込みのマッシュルームのノウハウと種菌を瓜生に提供して、共同研究する事になりました。
 早速、原菌から種菌を拡大培養したり、キノコを発生させる菌床材料を手配し、3カ月後には 待望の愛くるしいマシュルームの子実体が発茸し、瓜生との共同試験栽培は見事成功しました。

日本産の種菌からブラジルで発茸した幻の分身、純白可憐なブラジル二世のマッシュルーム

 日本から導入した確実な種菌と、僅か6カ月の体験からの頼り無いノウハウでしたが発茸した、ブラジル生まれの二世のマッシュルームの純白な子実体は自分の分身とも思われ感無量でした。
 見ず知らずの異国にあって、ブラジルだからこそ巡り会えた、心ある同胞先達の人間味溢れる善意に満ちた相互扶助と相次ぐ奇遇とが相まって、成功をもたらしてくれた試験栽培から、自信と歓びで仕事に弾みがつきました。
 更にブラジル生まれのマッシュルームの組織から培養した原菌をもとに拡大純粋培養して、種菌の販売事業も順調に伸展しました。
 ブラジルに於けるマッシュルーム栽培は1940年頃から始まり、当時はヨーロッパからの有産階級の移民が、望郷の念にかられ高級食材を夢見て本国から種菌や菌床を取り寄せては、僅かばかりのキノコの発生に一喜一憂しました。
 同時に、様々な篤農家が人工栽培に挑戦しましたが、菌に関する有識者が少なく、また粗雑な培養種菌での試行錯誤では、商業的な栽培には至りませんでした。
 私は日本でキノコとの初めての出会いの川越先輩や、栽培ノウハウの伝授や種菌を横浜まで届けてくれた工場長、そしてブラジルで関連した同胞先達との、小説を地でいくかのような相次ぐご縁と奇遇により、水産志向だった一介の移民の余りの赤貧さと無謀さなどなどの相乗連鎖が運命の分岐点となり、キノコ移民への変身を余儀なくされ、ブラジルでの「たかがキノコ、されどキノコ」の商業的栽培の幕開けに微力ながら関与できた事は幸いでした。

台湾移民と協力してキノコ村創立

 一方、キノコ業界の更なる発展を目指して、当時の台湾は政情不安な社会情勢から有産階級はアメリカやカナダに、庶民はブラジルとパラグアイへの移民が脚光を浴び始め、また台湾は既に日本同様のキノコ栽培の技術を駆使していたので労力確保と技術移転に着眼しました。
 これより台湾系の友人の実弟が営む台北の松山空港の近くでの薬局の片隅に、ブラジル移民斡旋所を開設して3カ月で約40家族を誘致し、サンパウロ近郊にキノコ村を創設しました。
 この企画はブラジルと台湾とは国交が樹立されて無いのが幸して、公的機関の関与も支援も一切受けずに、我々だけで約1年で成就する事ができました。これよりキノコの増産体制は確保され、ブラジルのキノコ産業は質量共々近代化へと歩み始める事が出来ました。
 しかし、当時の多くのキノコ栽培者には未だ揺籃期で、資本力もなかったので菌舎の空調設備が装備できず、菌舎内部温度が23℃を越す夏場は、子実体が雑菌に汚染され奇形、着色等の為に商品にならず夏場の栽培は回避し冬場の年間一作でした。

ブラジルの茸栽培の先駆者古本さん(左)と野澤さん。タピライのサンタモニカ農園にて

 それで夏場の高温での栽培可能な自生のキノコを求め山野を探し廻った結果、1963年の夏にブラジルのキノコ栽培の先駆者で、旧制宮崎高等農林専門学校出身の古本隆寿が、サンパウロ近郊の山野で名もないキノコを発見しました。
 その後、当時の日本での菌類では権威ある岩出菌学研究所に、古本は名もないキノコの同定(植物分類上の所属や種名を決定する事)を依頼しましたが叶わず、2年後にベルギーの植物学者ハイネマンによりAgaricus blazei murrillと同定されました。
 しかし、岩出研究所は三重大学や日本癌学会により、アガリクスの制癌作用が認定されるや、ブラジルから極秘にアガリクスを日本に取り寄せ拡大培養の結果、アガリクスとは異種異質の「岩出101号菌株」を生生したとし、さらには発茸したキノコの商品名を独自に「姫松茸」と命名して商標特許出願しました。
 このような某国にも匹敵する、あるまじき商業道徳を日本の菌類最高機関が敢えて実践し、同民族のしがないブラジル移民を同士討ちした事は誠に由々しく、見者の古本は怒り心頭に発しました。
 しかし法的に「姫松茸」の特許出願を無効にすべく立件しても、頼りになる弁護士も不在で、結局は経費倒れに終わるのが落と断念しました。
 その後、アガリクスの人工栽培法も確立され、生産と流通は約30年間もの長期に及んで順調に継続して進展し、日本を始めアメリカ、EU圏の健食業界を席巻し、年商600億円とブラジルのアガリクス栽培者と日本の流通業者に大きな経済効果をもたらし、我が世の春を謳歌しました。

日本に輸出する乾燥アガリクスを抱え、ご満悦の野澤さん

アガリスクが見せた天国と地獄

 しかしアガリクスの余りにも突出した販売拡大に、将来への危機感を抱いた日本の医薬業界と関係省庁が結託して、2006年2月13日、厚労省はキリンウエルフーズ社のアガリクス商品から発癌性物質が検出されたと告示しました。
 しかし、この会社は中国産のアガリクスを販売していたので、産地表示に厳しい厚労省にもかかわらず、中国産アガリクスの検体から検出した事は故意に明言せず、恰もブラジル産のアガリクスも含む、アガリクス全般に発癌性物質が検出される疑いがあるとの危惧感が吹聴され、風評被害を拡大扇動する結果となりました。
 恐らく往時の中国野菜の如く、キノコへの化学肥料や殺虫剤の重金属が付着した検体から故意に発癌剤を検出したものと思われます。日本癌学会が認定し30年間も流通販売を容認していながら、突如として制癌剤が一転して発癌剤に豹変させた電撃告知は、食に敏感な日本の社会の津々浦々にまで伝播し、根強い風評被害がもろに醸成されたので、アガリクスの生産と流通の30年に及ぶ栄華の歴史は敢え無く終焉を迎えました。
 これに伴い、約4000人の従事者が失職、転職、破産、日本へのデカセギを余儀なくされました。そして案の定、2年後に厚労省はアガリクスからの発癌物資の検出は事実無根であったと告示し、医薬業界と厚労省が画策した同士討ちを露呈しました。
 その後のアガリクスの生産は、台湾系栽培者が僅かに再帰して現在に至っています。かかる不祥事を立件しても、勝ち目はないので泣き寝入りしました。
 私は移民後の仕事の信条は、一定の場所に定着し、或る生業の利潤追求を生涯の目的とするのではなく、ほどほどの生活ができれば、余力は折角ブラジルに居を構えたので、中南米をくまなく徘徊して各地の赤裸々な地誌を広く深く体得する、と同時に人脈を構築する事でした。
 その為には日本政府の在外公的機関に奉職し、各国の公的機関とも同等の立場から接触する事が良策と考えました。
 それで当時揺籃期にあったアガリクスやプロポリス事業での仕掛け人としての責務を果した後、1989年に創設された官民フアンドのJAIDO(日本国際開発機構—外務省と経団連の合弁企業で途上国開発支援機関)で、業務委託農水産専門家として2002年まで非常勤で奉職して後、JICAに同様の職種の第三国専門家として移籍しました。
 今後もし機会あらばJAIDO及びJICAで体験した、中南米各国での行状記を寄稿させて頂きたく思います。(10月20日記)

東京・上野の野澤農園産のアガリクスの直売店