安慶名栄子著『篤成』(31)

第18章  助け合い

 仕事が増える分、自分の時間が減っていく。私はその頃サントアンドレー市のジャサツーバ区に住んでおり、会社がブタンタンという所にありました。フスカというフォルクスワーゲン社製の小型大衆車で毎日1時間半もかけて通っていました。
 仕事はどんどん増え続け、その場所も見る見る狭くなってきたので私たちは会社をお客さんの近くに移した方が良いという結論に達し、パルケ・ノヴォ・ムンドという場所に倉庫を借り、そこへ移転しました。
 勝利への希望と喜び、そして色々な障害も増えてくるのは当然のことです。
 私達は「品質、時間厳守、誠実」をモットーとして、皆一つになって働くことを心掛けました。すると、お客さん達が自ら口コミで家族や親戚、知り合いの方々に紹介してくれるので仕事が手に負えなくなる程顧客が増えてきました。
 ということで従業員数も増やしましたが、それでも間に合わず、私とパートナーのマリオさんも生産の方で夜の11時まで働きました。加工過程で使われる化学物質の毒性が高く、私たちは咳が止まらないほどの中毒状態に陥ることもありました。そういう時には車を止め、道端で座り込んで息が出来なくなる程咳をするのでした。目(瞳孔)も拡張し、電柱の照明が雨傘のように見えるのでした。
 だが「父を幸せにする夢」は、私の心の中に大きくなるばかりで、仕事のリズムを続けるしかありませんでした。翌日の朝4時にはもう出社していました。従業員が会社に着く時までにはボイラーを十分に熱しておきたかったのです。
 「この世の中であんたほど働く女性はいない」と父はいつも言っていました。
 マリオも私を活気づけるためだったのでしょうか、「お金を儲けるにはあと5年しかない。栄子ももう年だから、今のうちに儲けるんだ」といつも言っていました。
 仕事は増え続け、絶えず新たな戦いに見舞われました。その頃はすでに17人の従業員がおり、ジーパンの流行は絶頂点に達していました。
 常に新しい加工法が生み出されていましたが、ある時期、なかなか真似が出来ない加工法が現れました。一日中試し、あらゆる手段を尽くしてもダメでした。夜寝ている間にその加工法について夢まで見て、翌日再度試してみました。
 やはり失敗しました。しかし、その失敗作はとても綺麗な生地を生み出し、お客さんが気に入ってくれたのです。それからは、もうあの流行の加工法を試みる暇もなくなってしまうほど仕事が増えたのです。
 すると、ある日突然、その加工法を教えてほしいとチリのサンチアゴ市から同業の経営者が現れたのでびっくりしました。私たちの小さな加工所の商品がチリまで行き届いていたとは・・・。
 普段通り快く出迎え、会社に入ってもらって洗浄加工の責任者に紹介しました。洗い加工の担当者たちは全員その経営者の質問に全部答えてあげましたが、その方がすべて綿密にメモを取っていたことに皆感心していました。
 チリでは過マンガン酸塩の利用は断じて禁じられているとのことでした。それでした。私が前の加工法に失敗したのは、その酸化剤について何も知らなかったためでした。