特別寄稿=新しいブラジル日系社会の夜明け=ニッケイ新聞を応援する会発足 アチバイア在住 中沢宏一

サビアーの鳴き声とともに朗報

美しい鳴き声のサビア―・アラランジャ(Dario Sanches from SÃO PAULO, BRASIL, CC BY-SA 2.0 , via Wikimedia Commons)

 私はコロナ禍自粛生活に入って早寝早起きで、二時には目が覚める。ニッケイ新聞デジタル版のニッケイ社会ニュースを見ていたら [ニッケイ新聞/ニッパク新聞を応援する会]が目にとまりました。
 代表世話人・矢野敬崇、世話人・下本八郎 、石川レナト、天野鉄人の4氏は実業家として成功されていると共に、各々の立場でブラジル日系社会の重要ポストで長年貢献されて来られた強力で信頼出来る方々です。
 日系社会の発展を願いつつ、日本とのつながりを重視されて来られた方々であります。いよいよ彼等が手を組む時代が到来した事を喜び、これからの日系社会についての未来像を思い巡らしていると静寂を破り、サビアーが鳴き始めました。
 あたかもこの朗報を祝しているように――、新しいブラジル日系社会の夜明けを感じました。
 コロナ禍で田舎暮らしをしていると、いままで気づかなかった事を発見します。先輩方の詩歌にはサビアーがよく詠まれておりますが、この頃の生活でサビアーが如何に関わって来たのか分かるようになりました。
 夜明け前に朝食と弁当作りなどを仕度をしていると、サビアーが鳴き始めて出発の合図、エンシャーダでの作業、トラクターでの整地には、サビアーがミミズや昆虫を目当てに集まる。
 そしてサビアーのさえずりは心を安め勇気を与える。サビアーはサンパウロ州鳥として1966年、ブラジル国鳥として2002年に選ばれている。国鳥としてトカーノと思っている人が多いがトカーノは高く遠い所におり、鳴き声が豚そっくり。サビアーは人の近くにおり、容姿がスマートで美しく、機敏で鳴き声が素晴らしいから選ばれているのでしょう。
 数年間農薬を使わないので鳥が多くなってきた。特にサビアーの棲息出来るのは環境の一つのバロメーターになるようです。

「ブラジル日系人協会」の設立を

 本題に戻します。
 さて世界中その国を代表する日系団体はほとんど何々日系人協会と称しております。ブラジルではリオ・デ・ジャネイロ州が日系人協会を名のっておりますが、まだ全体をまとめての「ブラジル日系人協会」はありません。近年多くの方からその設立の提案がなされております。
 この度の世話人のメンバーをみると皆さんが音頭をとってブラジル日系人協会をまとめてくれるのではないかと期待しているところであります。代表世話人の矢野氏はパンアメリカン日系人協会のブラジルの会長ですし、石川氏は日伯文化福祉協会の会長ですから 是非お願いしたいと思います。
 戦前は日本人会と称し、戦後は文化福祉体育を付けての気配りでした。それぞれの名称はそれぞれ歴史がありますので継続しても、国と州を代表する団体には「日系人協会」が相応しいと思います。
 それは世界一の日系人を有するブラジルが各国と歩調を合わせるためにも日系人協会にすべきと思うし、ブラジルの日系社会をまとめ内外での効果的な活動を実行するためにも必要なことであります。
 社会変革にはよく革命が使われます。革命とは被支配階級が支配階級を打ち倒して社会体制を変革することですが、日系社会の変革は明治維新の時の支配階級武士が自ら明治へと改革したごとく、現在の日系社会の指導者達が率先して道を開いて頂きたいものです。
 そのような意味で、「ブラジル日系人協会」の設立はブラジル日系社会の維新と言えます。
 参考になると思うので 私の体験を披露します。
 1995年、中国遼寧省の省都瀋陽市(旧奉天)から招かれ訪中しました。遼寧ブラジルサッカー協会設立会で私に副理事長の役が用意されてありました。遼寧省は人口4500万人で戦前日本が作った満州国の中心地です。大連も含まれます。
 日本の莫大な投資によって穀倉地帯となり、大連の重工業が中国の近代化の躍進を支えました。省庁に華僑部が有って案内されました。
 協会の理事長はカナダで学校を経営する華僑で、省庁での会話は英語でした。因に中国サッカー協会の理事の一人にインドネシア出身でブラジル10年在住の華僑が選ばれておりました。
 日本では考えられないことで、海外の日系人を日本サッカー協会の理事に招くようなものです。中国の躍進は外資導入と全世界から高度な技術者や学者等の人材を招致したことと、必要とする中国系人を中国人と同様に制限なく招く中国の懐の広さに驚いたものでした。

オランダ料理店だがインドネシア風の謎

 その点、日本国はどうでしょう。外国の日系人との連携がまだ薄くブラジルからもっと発信しなければなりません。その為にはどうしてもブラジル日系人協会が必要となります。
次に同じ年に日本からのサッカー関係者をオランブラへ案内したことがありました。
 日本からのお客さんを、時間があれば必ずブラジルの代表的な地形を見てもらうためにカンピーナス方面を案内するのが決まりのコースでした。
 昼になったのでオランブラ内のレストランを探していると、オランダ料理の看板が目に入った。食べようと入ったら全然雰囲気が異なり、東南アジア、インドネシアの飾りでした。1602年オランダ東インド会社が進出、長い時間をかけてイスラム教のインドネシアを植民地化して行きました。
 1942年2月、日本軍が侵攻し、約350年続いた植民地支配は崩壊しました。日本は1945年3月にはインドネシア独立準備委員会を発足させ、1945年8月15日終戦となるやスカルノは独立宣言をしました。
 オランダは植民地奪回のために4年間あらゆる手段を講じたが、日本軍政下で独立派への軍事教練を行っていた日本軍人二千人がインドネシア軍に加わり勝利に貢献し、オランダは再植民地化を諦めました。
 大東亜戦争はアジア各国を植民地からの解放と大東亜圏の設立を目指して始めたことでしたから、日本は大変な犠牲を払って実現させました。
 戦後1956年、日本はオランダへ36億円の賠償金を支払っているし、2001年には2億5千万円、さらに2007年にはオランダ下院が元慰安婦への謝罪と補償を求めています。オランダの報復はBC級戦犯として226人の日本軍人を処刑しております。オランダは第2次世界大戦ではドイツに侵攻され国土は疲弊しました。約350年間続いたインドネシアを失いました。
 それに軍人と民間人で約15万人が捕虜となり 戦後オランダに送られた一部の人達がブラジルに移住し オランブラに入植していたのです。
 私達がこのレストランに入ったのは1995年ですから、まだ日本への不信感が残っていた時で、異様な雰囲気となりました。
 何故こんなことを書くかというとオランダ人は戦勝国の庇護の元に移住して来たし、コチア産業組合の崩壊した頃はオランブラはコチアよりも厳しく経営状況が悪かったようです。米州開発銀行からの融資で立ち直ったと聞いております。米州開発銀行の大株主は日本国でした。コチアは破産しオランブラは残りました。

自虐史観がコチア組合を潰した?

初期のコチヤ産業組合の全景(『在伯同胞活動実況大写真帖』 竹下写真館 1938)

 戦後日本人はアメリカの占領政策によって、また日本の左派の報道によって『この戦争は日本が悪かった』の自虐史観を脳裏に植え付けられました。ブラジル生まれも敗戦国民の子弟として何らかの影響を受けて育ちました。コチアを潰した外交交渉はその辺からの遠慮によることが原因のような気がします。
 もっと堂々と日本と国際銀行への交渉が出来たはずです。私もコチア組合のバイア州バレイラスのセラード開発に参加し、コチアの崩壊によって撤退した者の一人ですが、今もってコチアを失ったことが残念でなりません。
 しかしコチア組合がサンゴタルドのセラード開発に尽力し、田中角栄首相の英断で日本がプロジェクトを援助し、それが基礎となって今年度の穀類の生産はなんと2億6千万トンに達して、近い将来アメリカを追い越す勢いで生産が伸びております。
 オランブラとコチアの例をあげました。これからも重要な計画が出て来るでしょうが、これ等をバックアップ出来る組織、日系人協会の設立が急務と思います。
 ブラジルで独自に進化発展してきた県連の日本祭りがコロナ禍で実施出来ない状況にありますが、何らかの新たな企画を考案しなければなりません。それに二年後、大統領と州知事及び国会議員の選挙があります。最近日系の議員が目立ちません。この日系政治家の育成にも日系人協会の設立は重要な役割を果たすと思います。
 この度の「ニッケイ新聞/ニッパキ新聞を応援する会」の発足はブラジル日系社会の未来を明るくする誠に勇気付けるニュースであります。
 「ニッケイ新聞/ニッパキ新聞を応援する会」の発足を祝うと共に、世話人・協力団体・協力者が一丸となってブラジル日系人協会の設立へ進展されますよう期待しております。

サビアー鳴き ブラジル大地の 夜が明ける ニッケイ新聞 応援ニュース