中島宏著『クリスト・レイ』第110話

「いいえ、私はそうは思わないわ。マルコスにはそういう経験がないから理解できないかもしれないけど、人がそれまで生まれ育った国を捨てて、あえて私は、捨ててというけど、つまり、それまでの世界をすべて葬り去るというような考えで、新しい世界に挑戦するという覚悟がなければ、到底、このような大きな目的を遂行していくことはできないと、私は信じているの。
 もちろん、その過程では、それまでには経験しなかったような出来事や困難が生じて来ることは当然だし、それがつまりは、国を移すということの代償だと思うの。移民するということは結局、そういうことでしょう。目標を定めたら、それをどこまでも追い続けるというのが、移民の持つ本来の姿じゃないかしら。少しぐらいの障害が出てきたからといって、その都度そこから逃げようとしたり、避けようとしたりしていたのでは、永久に目的には辿り着けないでしょう。
 マルコスが言うように、確かにいろいろな選択肢があるのだから、何も頑なになって、どうしてもそこを突破する必要はないかもしれないけど、でも、私はあえてそこに挑戦したいと考えるタイプね。
 まあ、生き方というのは千差万別で、どれが正しいとはいえないけど、少なくとも私の場合は、そういう、何というか、生きていく上での一本の筋が通った信念のようなものを持つべきだと考えてるの。そうでないと、遠大な目標に到達することはできないのじゃないかしら。
 まあ、ちょっとロマンチックすぎる考え方かもしれないけど、でも、それぐらいの心意気を持たなければ、せっかく遠い世界からここまでやって来た意味がないと、私は思うの。
 あら、これはちょっと偉そうなことを喋りすぎた感じね。
 私のような小娘が言うようなことじゃないかもしれないけど、でも、こういう信念は、何も私だけでなく、このゴンザーガ区にいる人たちの大半は、みんな同じように持っているものよ。これもやはり、あのクリスト・レイ教会の教えの影響が大きいといえるかもしれないわね。だからね、マルコス。私は、あなたが考えているよりもっと融通の効かない頑固者だし、付き合いにくい人間だから、その辺のところはよく考えた方がいいと思うわ」
「もう、とっくにその辺のところは分かっていますよ、アヤ。もっとも、信念の強さがそこまでのものとはちょっと想像外でしたがね。でも、今の話は大いに共鳴できますよ。おそらく、そういう答えが返ってくるだろうとは思ってましたが、はっきりいってそれは僕の予想以上のものでした。やはり、アヤはその辺りの普通の女性ではありませんね。
 あ、失礼。先生に向かってこういう言い方はよくありませんね。訂正します」
「まあ、そこに気が付けばよろしい、ハハハ、、、。でもねマルコス、正直なところ私ってかなり変わったタイプの女ね。それは自分でもよく分かっているつもりよ。でも、こればっかりは、生まれつきの性格ということもあるでしょうから、変えようがないわね。
 それとねマルコス、私を先生と呼ぶのはもう、やめていただけないかしら。もう日本語学校も閉鎖されてしまったし、そうなればもう先生でもないでしょう」
「アヤが、そう希望するのだったら、そのようにします。でも、僕にとってアヤはやはり先生であることに変わりはないですね。このことは一生消えませんよ」