アジア系コミュニティの今(4)=サンパウロ市で奮闘する新来移民=大浦智子=韓国編〈7〉 かつて5万人を数えた韓国系社会

バン・ウニョンさん

バン・ウニョンさん

公式最後の韓国人移民家族

 「ブラジルに来た当初は帰国したくて泣いてばかりでした。私の青春を奪われたようなものですから」と、今から半世紀近く前の1972年、17歳の時に両親と叔母家族で移民した当初を振り返るのは、バン・ウニョンさん(65歳、ソウル生まれ)。
 1963年に公式の第1回韓国人移民が始まってから公式には最後となる韓国人移民の2家族の1人としてブラジルに移民した。バンさん家族5人と、もう1家族は母方の叔母家族6人、合計11人での渡伯だった。
 今回、バンさんへのインタビューは、バンさんと一緒に移民した叔母の息子(従兄)とブラジルで暮らす栗木圭子さん(大阪府出身)の案内と韓国語の通訳で、ボン・ヘチーロ地区にある韓国人コーヒー農園主が直営するカフェテリア『Um Coffee』(Rua Lubavitch, 251, Bom Retiro)で実施された。

カフェテリア『Um Coffee』

カフェテリア『Um Coffee』

 「パンデミックになってからもボン・レチーロ地区では新しい飲食店がオープンしています。特にカフェテリアは韓国で今流行りの店のイメージがそのまま再現されているような印象ですね」と紹介してくれた栗木さん。
 『Um Coffee』はサンパウロ市内数カ所でそれぞれに個性を持たせたカフェテリアをオープンしており、焙煎を行うボン・レチーロ地区の同店は、店頭で常に焙煎機からコーヒーのアロマを漂わせ、奥にはソファー席の側に60キロの生豆袋が積まれるという、ブラジルらしい大胆な室内デザインのカフェテリアというのがユニークだ。

韓国人移民と韓国の存在感

 1972年5月、バンさんの父親と叔父が最初にブラジルに渡り、サンパウロの状況を確認して住居を確保し、9月にバンさんを含めた残りの家族が後に続いた。
 「移民するならまずは米国が当時の憧れでした。両親は英語ができたため、米国への移民も申請しましたが、特別米国に好印象があったわけでもなく、最初に許可が下りたブラジルに決まりました」
 近場の日本も決して豊かな時代ではなく、日本へ移住するという選択肢は考えなかった。
 飛行機でソウル、ロサンゼルス、リマを経由してサンパウロに到着。韓国から直接ブラジルに移民することができたのはバンさんたちまでで、1973年以降の韓国人移民は、パラグアイを経由して国境越えして来ることになった。

バンさんと栗木さん

バンさんと栗木さん

 バンさんによると、1970年代に入ると韓国では既に米国やブラジルに先発で移民していた韓国人の成功者の事例が紹介され、海外移住を勧める機関も出現していたという。特にブラジルでは縫製やアパレル産業でチャンスがあることが知られるようになり、ソウルの東大門市場で活躍していた縫製技術者も移民するようになった。
 2000年代はじめの最盛期は5万人ほどの韓国人がサンパウロを中心にブラジルで生活し、縫製やアパレル産業だけでなく、サムスン、LG、ヒュンダイ、キアといった韓国の多国籍企業の飛躍やK-ポップの若者人気も相まって、韓国そのものの存在感が大きく示されるようになった。(つづく)