中島宏著『クリスト・レイ』第121話

 第二の人生を送るはずのこの国で、このような境遇に甘んじなければならないということが、移民して来た人々を堪らない気持ちにさせた。この責任は誰にあるのかと考えてみても詮無いことだが、それをいまさら、ブラジルに、あるいは日本に押し付けてみたところでどうにもなるわけではない。
 すべての責任は結局、それぞれの人間に帰することになるのだが、そういう認識を自分自身がすべて飲み込まなければ、それ以上前に進むことはできない。少なくとも自分で決めた移民という行動の結果はすべて、自分が責任を持つしか他に方法はないであろう。そしてそのことは、想像以上の重さを伴うものである。
 人によっては、その重さに耐え切れず、精神的に参ってしまう場合も往々にしてある。自暴自棄になり酒に溺れていくことも稀ではない。国を移して、そこに自分の人生を賭けるということは、見かけほど簡単なことではない。無論、そのようなことは誰もが最初から承知の上であるはずなのだが、現実の厳しさは、生半可な覚悟ではとても乗り越えられるものではない。
 その重さは、ブラジルという桁外れの大地と、それまでの思考の尺度をあっさり飛び越えてしまうような環境を持つ国では、恐ろしいまでのレベルに達する。
 その重さに耐えるには、それに対応できるような強靭な精神力を必要とする。
 そこに、国を移して生き抜こうとする人々の、想像を遥かに超える厳しさが存在する。もっともそれは、日本人移民だけではなく、世界中から集まって来ているすべての移民に共通するものである。移民としてやって来た人々は、例外なくこの過程を踏みつつ、このとてつもない大地を持つ国の人間になっていく。
 それはある意味で、まったく未知の世界で自己を変貌させていく、あるいは再生させていくための苦しみでもあるのだが、同時にまた、移民にとっては避けて通れない道でもあった。
 その道を、アヤは簡単に乗り越えてしまったように見える。少なくとも表面的には、彼女はさして大きな葛藤も苦悩もなく、その辺りを解決したようにマルコスには見える。
 マルコスにとっては、その辺りが不思議なのだが、そこにアヤの持つ特別な能力というか、秀でた適応性というものがあるのかもしれない。確かに彼女は、同じように移民して来た日本からの人々と比べると、この部分、つまりこの国に適応できるという点で、かなり違ったものを持っている。
 アヤを特別な人間として見ているわけではないが、外国からやって来た、いわゆる一世の人間としては、かなり型破りなタイプであるということは、マルコスも感じ取っている。彼女のような存在は、日系人社会の中でも、極めて稀なのではないかというふうに彼は考えている。そして彼女のような女性と知り合うことになったのも、滅多にない幸運なのではないかとも思っていた。

 マルコスとアヤとのデートは、その後も変わらず続いている。
 いろいろな場所、様々な風景をバックにして、二人の会話はどこまでも続いていく。
 ただし、二人の周りにある環境は騒然とした感じに包まれ、以前のような落ち着きはなくなりつつある。第二次世界大戦の戦況がブラジルにも逐次伝わって来るにつれて、この国での外国人に対する取締りもさらに厳しくなっていった。
 二人の会話もその為、話し言葉が変わった。前述したように、そこからは日本語が消え、ポルトガル語になった。今の情勢下ではやむを得ないことであるし、それが、自然の成り行きでもあった。この時点から、日本語の勉強という口実は消えた。外国語が規制されていく中で、日本語で話し続けるのは危険だから、これ以降はすべてポルトガル語になった。
 アヤのポルトガル語は彼女自身も言っていたように、主にプロミッソンの教会や、それに関連した様々な人々との交際によって随分上達し、ほとんど不自由のないレベルに達していた。そのような才能があったことも確かだが、彼女自身がそれだけの努力をしていることも事実であった。
 ポルトガル語になると、マルコスの丁寧に話す日本語の雰囲気はなくなり、もっとブラジル的で、本来の友だち同士の感じに変化していった。そこからはもう、先生と生徒という関係を思わせるような会話は消えていた。が、そこには不自然さはまったくなく、むしろそのことをアヤは、好もしいとさえ感じ取っていた。