中島宏著『クリスト・レイ』第143話

 同じ隠れキリシタンの流れを汲む牛島あきさんの人生は、まるでこの世に苦しむために生まれて来たようなものでしょう。果たしてそこに、生きる上でのどういう意味があったのか、ということを考えていくと、彼女の生きた人生がいかにも不毛で、幸薄いものであったものに感じられ、そこにあるものは、滅入るような暗い気分に落ち込んでいくような雰囲気を持つものだったわ。
 ちょうど、そんなとき、隠れキリシタンについても迷っていたから、何だか私は、その両方の問題から板ばさみになったようで、精神的にもかなり苦しい思いをしたわ。そこから私は、宗教とは一体何かというようなことを、私なりに考えていったわけね。
 こういう考え方は、どちらかというと教会の教える、とにかく信じなさいという思想とは一致しないものだけど、でも、あの時の私にとっては、祈りそのものよりも宗教の意味を知ることの方が大切に思われたの。まあ、精神的にもちょっと不安定な状態だったから、必死になってそれを勉強しようとしたわ。分かっても分からなくても、自分なりに納得できる答えが見出せないかという思いだったわね。
 現実にはしかし、そのことを勉強したところで、こんな、とてつもなく大きなテーマが理解できるわけはないんだけど、でも、私の産みの母、牛島あきさんのことを思うと、何だかじっとしていられない気持ちが強くなって、無闇に宗教のこと、特に隠れキリシタンのことを勉強したわ。
 そうね、結果として、それまでほとんど知らなかった隠れキリシタンの歴史が、それによっておぼろげながらも分かるようになっていき、それはそれなりに収穫があったと今でも私は思ってる。でも、そのことが、私の心の中にあった、もやもやしたものを霧散させたかというと、必ずしもそうならなかったというのが本当のところね。
 つまりね、私の中にあった牛島あきさんに対する憐憫の情と、宗教の持つ意味とが一向に合致しないというところに問題があったということなの。
彼女の悲劇的とも言える生き方と、隠れキリシタンとしてのキリスト教への信仰心とが、まるで相容れない矛盾だらけのものとして、私には映ったのね。
 キリスト教を深く信じ、熱心なクリスチャンであったであろう彼女を、なぜ、イエス キリストは助けてくれなかったのか。信仰を深めることによって、そのことは可能だったのではないか。それとも、牛島あやさんにはその信仰心が足りなかったのだろうか。もしそうなら、何が足りなかったのだろう。そんなふうに私はいろいろ考えたわけね。
 まあ、今から思うとかなり表皮的で至らない考え方だったけど、でも、あの時はそれを真剣に考えたわ。宗教の存在は一体何なのか、宗教の意味はどこにあるのか。