特別寄稿=『菊と刀』は北米日系移民の研究書=恩、義理と人情、恥の文化を再読=サンパウロ市ヴィラカロン在住 毛利律子

アメリカ人女性の文化人類学者ルース・ベネディクト(World Telegram staff photographer, Public domain, via Wikimedia Commons)

 もし、ニッケイ社会の若い世代から、祖国日本の「恥、義理、人情、恩返し」という文化って何ですか、と聞かれたら、どのように答えよう。大いに戸惑い、返事に窮してしまうのではないだろうか。
 このような日本固有の文化的価値観を、一人のアメリカ人女性の文化人類学者ルース・ベネディクトが分析し、説明を試みたのが『菊と刀』である。
 ルース・ベネディクトは1887年、ニューヨークの旧家生まれで、名門コロンビア大学でアメリカ文化人類学の元祖フランツ・ボアに師事した。20世紀初頭、すでにアメリカでは女性の大学進学が許されていたが、教授となったのは晩年で、『菊と刀』を書いて二年後に心筋梗塞で亡くなった。61歳であった。

発刊の経緯

 四百数十頁に及ぶこの大著は、冒頭から次のように始まる。
 「アメリカ合衆国が全面的な戦争においてこれまで戦った敵の中で、日本人ほど不可解な国民はなかった。手ごわい敵と戦争になったことは以前にもあったが、見過ごせない行動と志向の習慣がこれほどいちじるしく異なっていた例(ためし)はない」。つまり、「太平洋戦争は作戦を超え、日本人の行動の意味を理解しないことには対処の仕様がない」
 ベネディクトは、1944年、アメリカ軍戦時情報局から、「日本人とはどういう民族か」、「(日米両者とも太平洋戦争に勝つつもりでいた)当面の戦争に勝ち、日本を占領、統治するにあたり、日本人にどのように臨めばよいか。この国についての情報を徹底的に集めるように」との委嘱を受けた。
 ベネディクトは日本語は話せず、文化人類学者でありながら、戦時下で調査研究のため来日することも出来なかった。そこで彼女は、情報局図書館やあらゆる出版物、文献、日本映画などから歴史を徹底的に読み込んだ。
 加えて、「この国(アメリカ)には、実際にその文化を生きた大勢の日本人移民がいる。その人々からの具体的事実の証言を基にして」日本人の文化的行動パターンを積み上げたのであった。
 この本は「日本人論」の先駆けと位置付けられている。日本人が日頃から頻繁に使う「恩返し、義理人情、恥。分相応(不相応)」。今日では死語になったとも言われるこれらの言葉はしかし、日本文化の深層に歴然として横たわっている。
 ところが、文化の違う外国人に、あるいは日本人子孫にこれらをどう説明するかとなると、立ち止まってしまう。空気のように当たり前の自国の文化のことだからである。
 この一書はアメリカ人が纏めているが、日本人こそ知っておきたいことが網羅されている。江戸時代の社会の仕組み、各階層の人々の暮らしぶりは興味津々で、好奇心は尽きない。コロナ禍中で、世界的に日本人の清潔な暮らしぶりなどがほめそやされているが、その元を辿ることで多くを発見し、民族的個性が浮び、深く共感・共鳴を覚える。戦後すぐに出版され、現在までおよそ300万冊発売されている所以は、自国の文化を再考する際に大いに助けになるからであろう。
 筆者にとっては、『菊と刀』を何度か周期的に再読してきた。こちらに来る前は、大学の比較文化論講座で学生と共に読み解き、今、歴史のあるブラジルニッケイ移民社会で日本人観を考える上で再読している。
 ここでは、冒頭にあげたような言葉の意味を尋ねられた時、どう答えるか。相手を納得させられる説明ができるだろうかということから、本書の中からほんの一部ではあるが抜粋して、再確認したいと思った。

『菊と刀』が象徴する日本人像

『菊と刀』(ルース・ベネディクト著、角田安正翻訳、2008年、光文社古典新訳文庫)

 まず、タイトルが非常に印象深い。
 作者によると、「菊」は国家神道主義における天皇制を表しているのではない。世の中がどれほど騒々しくても、淡々と菊作りに没頭する人びとのことを表しているようだ。「菊」は、「役者や絵師を敬う美意識、あるいは菊の栽培にあらん限りの工夫を凝らす美的感覚を一般大衆が大事にしている」
 「刀」は、「平和な時代でも刀を錆びさせてはならない武士の義務」を指し、「自己責任を全うしようとする強い意志を表している」。刀を崇め、武士(もののふ)を恭しく扱う風習である。
「日本人は攻撃的でもあり、温和でもある。軍事を優先しつつ、同時に美の追求も飽くことを知らない。思い上がっていると同時に礼儀正しい。頑固であり、柔軟である。従順であると同時に、ぞんざいな扱いを受けると憤る。節操があると同時に二心もある。勇敢でもあり、小心でもある。保守的であると同時に、新しいやり方を歓迎する。他人の目をおそろしく気にする一方で、他人に自分の気持ちを知られていない場合でも、やはり、やましい気持ちに駆られる。兵卒は徹底的に規律を叩き込まれているが、同時に反抗的でもある」(本文から引用)
 日本の芸術・芸能・一般の物つくりまで、細心のこだわりは世界に比類無いであろう。菊作りといえば、「秋の風物詩」として人気の菊花展(略称・きっかてん)がある。毎年、10月より11月まで全国で開催される。審査基準となる大輪の菊の花を咲かせるための日々の丹精は到底並みの努力では達成できない最高の職人技を競い合う。
 このように一方では平和な暮らしの中で最高の物つくりを愛でながらも、予断を許さず刀を磨き、途端に戦闘態勢に入れるように準備周到にしておく、という極端な二面的精神文化を「菊と刀」で象徴し、これが日本人気質の縦糸と横糸であると、作者は説明している。

語り部はアメリカ日系移民や戦争捕虜

大戦中に強制収容されるアメリカの日本人移民(National Archives at College Park, Public domain, via Wikimedia Commons)

 ベネディクトは多くの日本人移民と捕虜などの対象者に直接面接して記録を集めた。つまり、当時の北米移民は明治時代に日本で生まれ、日本文化を身につけて渡米した。渡米してからはその居住地の社会に溶け込めず、日本人だけの閉鎖社会を作り、その中で明治・大正の日本文化を温存していた人々であった。
 時代によって物の見かたや考え方が変わるといっても、どの文化にも旧態依然として変わらないものが社会の底にある。移民の心の奥には、ベネディクトの言う、「日本文化が純粋培養」された不変の精神性が残っていたことから、彼らの回答を「日本文化の型」の根拠とした。
 この書は、「日本文化の型」を説明するという点で高い評価がある一方、文化人類学者としては一度も現地調査をせずに、歴史的文献やアメリカ日系移民の証言を基にしたということに対して、多くの厳しい指摘、批判・評価がある。
 批判には、アメリカ優越主義に基づいて比較し、日本人の行動パターンを蔑視するような表現があること。「集団主義である」という誤った決めつけが広まるきっかけになったこと。実地調査をしていないので、社会のタテ関係はもとより、ヨコ関係の詰めが甘い。歴史的考察が欠如。移民からのデータ収集に基づく分析には誤解や偏見が多い。意味の取り違え、混乱が多いといったことなどである。

大戦中、強制収容所で合衆国旗への「忠誠の誓い」をする子供たち(1942年4月、Photo attributed to Dorothea Lange(w)., Public domain, via Wikimedia Commons)

 ベネディクト自身も冒頭で言う。「(私の)文化人類学者としての基本的研究姿勢は間違っているが、何分日米は戦時中であり、アメリカ人の日本人に対する知識の欠落は否めないが、それを、日系移民に対面する中で補足できるはずだ…私は日系人を伴って、日本映画をほぼ総て見たが、互いの解釈はかなり違った。監督の創作意図も正しく見抜くことはできなかった。日系人から教えられてようやく納得した。小説も同様であった。受け止め方の差異は大きかった。
 日系人には、自国の文化・習慣を擁護する者もあれば、毛嫌いし、悉く一蹴する者もいた。
(中略)日本について語る日本人は、本当に重大な事柄を見逃してしまう。その重大さが空気と同じように身近すぎて、目に見えないからである。アメリカ人も同様である」(要約)
 この本が書かれたのが戦時中であったという事情や、多岐にわたる日本文化の分析を考えると、よくぞここまで調べ上げたという賛辞も多い。筆者も、日本社会の階層仕組みや、当時の風習などから、学ぶことばかりである。

どう説明するか「恥、恩かえし、義理人情」

 これらの事柄は詳細に述べられていて、要約すると語弊が生じるかもしれないが、敢えてベネディクトの説をできるだけ簡潔にしてみた。(本書ではこれらは一覧表で記され、一つ一つ細かい説明がある)
●「恩」とは
恩は受ける側から見た言い方で、「恩を受ける・恩を着る」という。天皇から受ける皇恩、両親から受ける孝恩、主君から受ける恩、師匠から受ける恩。
●恩返し
恩は借りである。したがって借りた分だけ返さなければならない。恩に報いようと一生懸命になったときが、立派な行いの始まりである。
●義務
恩人に対して、恩を受けたものは「義務」としての「恩返し」をしなければならない。皇恩に対する忠義、親に対する孝行である。
●義理
義理は与えられた行為と同じ量だけ返すべきものとみなされる。世間的には、主君、親、家族。他人では、金銭を貰ったり、厚意を受けたり、労働力を受けた恩への債務。
 親戚は、同じ先祖から恩を受けたことと同じで義理を果たせねばならない。
●名前に対する義理
侮辱を受けたときの汚名をすすぐ、恨みを晴らす債務。
●日本の礼儀作法を護る債務。つまり、十分に節度を守る。分を弁えた生活をする。不適切な場所での感情を自制する。「分相応(不相応)」というのは、欧米の権威主義とは別物であるが、日本には伝統的に階層的秩序があり、挨拶、連絡の仕方、敬語などの言葉使い、礼儀作法などは、几帳面な決まりごとに則って行われ、絶えず相手がどのような立場の人か、識別することを心得ておく必要がある。
●お辞儀の仕方一つとっても、誰に向かってお辞儀するのか、どの程度深い角度にしなければならないか。それは、相手によっては無礼、あるいは侮辱したという不本意なことになるので気を付けなければならない。
●「義理人情」とは「義理ほどつらいものはない」が、「義理知らず」とは言われたくないので不本意ながらもタテマエの「義理を果たす」。なぜなら「義理」は「人の踏み行う道だから」である、しかし、ホンネの人情も自然の働きとして起きる。
 分かりやすく、身近の例を引こう。年に二回のお中元・お歳暮の習慣は、この「義理を果たす」行為であり、日本文化として定着している。

「罪の文化」と「恥の文化」

 ベネディクトは、欧米は「罪の文化」、日本は「恥の文化」と分けた。キリスト教文明国家では、神に見られているという絶対的な規範の中で行動が罪の意識に繋がっているという。しかし、欧米にそのような罪意識が確立徹底しているわけでない。
 日本は、世間体や外聞といった他人の視線を気にする「恥の文化」。例えば、親から子への注意は「世間に顔向けできないことをするな」「祖先を泣かすな」という自己規制である。
 日本には欧米のように唯一絶対神というのがない代わりに、世間体というのがその役割をしている。世間体に強くこだわる日本人の心情は竹の地下茎のようなもので頑として、根強く張り巡らされている。
 以上のことは、現代社会と比較するとより一層理解しやすいが、ここでは割愛した。機会があれば、外国人の見た「日本人のための日本文化観」再考をお勧めしたい。
【参考文献】
ルース・ベネディクト『菊と刀』角田安正訳・光文社