安慶名栄子著『篤成』(8)

 ようやく夫と再会し一緒になれることで幸せのはずだったが、2人の子供を沖縄に残さねばならなかったカマドは、ブラジルに渡ることにこの上ない辛い思いを抱いてしまっていました。
 かわいい子供たちと離れ離れになる苦痛は大きく、夫に再会する喜びが薄れてしまったのでした。息子たちは丁度学校へ通い始める時期であり、あの頃はブラジルの田舎のど真ん中にふさわしい学校を見つけるのは非常に難しいとのことで、やむなく

1937年―安慶名家の家族写真。次男信綱を膝にのせているのが篤成の妻カマド。左側で、白いシャツを着ている子が長男篤政。前列中央が篤成の父金次郎、その左母マツ、左端篤成の弟恒信(三男)。後列中央が篤成の兄篤信(長男)、その左が篤成の妹サダ、右がカマドの友人

1937年―安慶名家の家族写真。次男信綱を膝にのせているのが篤成の妻カマド。左側で、白いシャツを着ている子が長男篤政。前列中央が篤成の父金次郎、その左母マツ、左端篤成の弟恒信(三男)。後列中央が篤成の兄篤信(長男)、その左が篤成の妹サダ、右がカマドの友人

子供達を義父の下に預けてきたのでした。
 そのように母は、心の中で激しい葛藤をしながら政孝さんについてブラジルへ渡って来たのです。それで母は、畑での仕事はかなりきつかったが、子供との別れの痛みを和らげる唯一の方法として、夫のそばで早朝から日が暮れるまでひたすら働く道を選んだのでした。
 1935年4月21日に初めてのブラジル生まれの兄恒成が誕生しました。父は、「神様からの賜物だ」と言って喜びました。
 家族が増えると、収入を増やさねばと、父はガスパールというオーストリア出身の方が所有している耕地を賃借しました。その時、母はもう一人の赤ちゃんを身ごもっていました。その事を知ったガスパール氏は実に気高い心の持ち主だということを示しました。篤成が賃借した土地では、商売用のバナナと自給用の米を栽培していました。
 契約上では賃借料がバナナの総生産量50%と決められてあったが、母の妊娠に気づいたとき、ガスパール氏は契約書を変え、40%に減額して下さったのでした。
 これもまた「神様からの賜物」でした。夫婦は、沖縄に残してきた二人の子供に会いたいと胸が引き裂かれるような思い以外には、苦難も過ぎたのではないかと思うほど落ち着いた日々を過ごして。
 そして1937年、いろんなことで人生が変わってきていた時期に私の姉よし子が生まれました。その翌年、1938年は私が家族に加わった年でした。そして次の年1939年に末っ子のみつ子が誕生しました。
 間違いなく豊かな、生産性の高い時期でした。バナナにしろ、子供たちにしろ。父は常に「子供は神様からの贈り物だ」と言っていました。

写真4=1937年―安慶名家の家族写真。次男信綱を膝にのせているのが篤成の妻カマド。左側で、白いシャツを着ている子が長男篤政。前列中央が篤成の父金次郎、その左母マツ、左端篤成の弟恒信(三男)。後列中央が篤成の兄篤信(長男)、その左が篤成の妹サダ、右がカマドの友人