安慶名栄子著『篤成』(11)
気の毒な父は、母のための法事で心も体も疲れ切っていたはずなのに、さらに子供をなくすなんて。そうです。
あの時点では父は子供を一人無くしていたのです。近くに私の叔母が住んでいたので、そこに行っていないだろうかと、父は大慌てで探しに行った。いない。父は喉が絞まるような苦痛を覚え、どうすればいいのかと悶えていました。
外から叔母の家に行くと渡らねばならなかった小川が流れており、父は直感的に川添いを探ってみようと思った。
もしかしたら小さな栄子がその辺にいるかもしれないと思ったのです。
案の定、彼の小さな冒険家はちゃんとそこにいました。川の淵の雑草の中で迷ってしまい、泣きじゃくっていたのです。
すると、その時まで抑えられていた感情が急に浮上したのか、ダムが決壊したかのように父は慟哭した。私を抱きしめながら父の心には、妻を亡くした苦しみと私を見つけた安堵と喜び、正反対の気持ちが一挙に炸裂していたのでした。
これらの話は、ずっと後年になって、二人で旅行していた時に父が大好きなビールを飲みながら昔のことを思い出し、私に語ってくれたのでした。
あの私の行方不明のようなエピソードが何回も繰り返され、友人や親戚の者はみんな父に早く新しい奥さんを探すべきだと口をそろえて言っていました。だが父は「この子たちをまま母の手になんか渡したくない。僕はまだ若い。また結婚すれば必ず子供が増える。そうしたらこの子たちはどうなるんだ」と。
それでもなお、心配か、あるいは同情してか、友人や親戚は何度も繰り返し父に結婚を進めた。実際父にとって毎日の生活は生易しいものではなかった。全力を注いでお父さん役とお母さん役を両立せねばならなかった。
月が照る夜は明るいので、父は家のそばの小川で洗濯をするのでした。私たちももちろん、ついていきました。思いっきりはしゃいで水に入ったり、出たり、川添いを走ったりして、稀な楽しい時間を存分に過ごすのでした。
あれから2年たった1943年。時は苦難を持ってくると思えば、すぐにまた喜びをも与えてくれました。その年に末っ子のみつ子が帰ってきたのです。どんなに楽しかったか。
やっと4人兄妹が揃ったのです。再び楽しい時期が家族にやってきました。恒成はもう7歳。いつも10歳になるガスパールさんの息子さんと遊んでいました。ガスパールさん一家は私たちを隔たりなくかわいがって下さり、いろいろと面倒を見てくれました。例を挙げると、父が何かの用事で出かけると、私たちはガスパールさんのお宅で遊ばせてもらい、何かの理由で父が遅れても、まったく問題ありませんでした。迎えに来てくれる時には、私たちはぐっすりと寝ていました。
そういう時には、ガスパールさんの二人の娘さん達エルザとヌキがそれぞれ私とよし子を負ぶって、父がみつ子を抱いてみんな家に帰るのでした。
どんなに幸せな幼児期だったか。田舎の本当に素朴な人生でしたが、遊ぶ時の私たちの時間は充実していました。