特別寄稿=白い黄金を求めて=ブラジル綿花の歴史と日本人綿作者=櫻井章生(さくらいあきふ)=《4》

◎サンパウロ綿作の衰退

1940年代、サンパウロ州の棉花畑(写真はすべて著者提供)

 サンパウロ州の綿花生産は1944年の45万5千トンをピークとして、その後は表土流失による地力の減退、綿作の採算割れ、競合作物である大豆作への転換、それにバストス地方を主として養蚕から養鶏への転業による綿作農家の減少等により減産を見たあと、
年によって増減があるものの、約20万トン前後の生産でずっと1990年迄推移した。
 この間サンパウロ州の綿作地は、かって日本人移民がコーヒー危機のあと綿作に転換して大いに栄えたソロカバナ線、ノロエステ線、パウリスタ線はコットンブームの時代を招来したが、この地方はもともと有機質が少なく砂質の多い土壌であったため、綿花の連作による表土流失で地力が低下したため、1950年代以降減反傾向を続けた。
 替わって安定した綿作が行われたのはサンパウロの北西部、イツベラーバ、ミゲロポリス、グアイラ各郡からリオグランデ河流域一帯で、平坦地多く地味肥沃で適度に砂質もあり、綿作には最適地であった。
 この地方に入った日本人は、もともとコーヒーの義務農年を終えたあと陸稲の営農を行ってきた先駆者の一派が開拓移住してきて、綿作を始めたものである。この地帯はもともとコーヒー時代の大農場主の所有地であったが、コーヒー危機のあと農地分譲が進み、日本人移住者で農地を購入していった人
も少なくなかった。
 サンパウロ州北部の日本人移住者で傑出したのは前田一族であった。前田家はモジアナ線イツベラーバに農場を購入して綿花栽培で財を成し、繰綿工場を設立し、その後はゴイアス州に万単位のヘクタールの土地を購入し、綿作と複数のジン工場を建設した。
 前田一族は綿作の技術改革について先進国、特に米国の技術を導入し、徹底した機械化を進め、種子の開拓と栽培技術を高め、実綿収穫機と包装の自動化とジン機械の改造等、従来のブラジルの綿花栽培と加工に大幅な改革をもたらし、2000年代に入ってから急速に発展したマット・グロッソ州、バイア州、ゴイアス州の高原地帯の大規模で高度の技術を伴った綿花事業の先便をつけた。
 前田グループは2010年、金融上の内部事情によりその企業体を第三者に売却し、永年のブラジル綿花業界のリーダーの役割に幕を閉じた。
 同じくサンパウロ州モジアナ線出身の山下茂氏は、グアイラ郡に1951年に移転後綿花栽培に従事、子息ノボル氏と農地を拡大し、グアイラ郡における最大の綿花栽培者となった。1992年ゴイアス州イパメリ郡の農場に綿花を栽培開始、2005年には農場内にジン工場設立、担当は山下家3代目のアキラ氏で、一家で3代続いた綿作者として特筆される。
 高原地帯の綿花栽培の耕作原価について、ゴイアス州イパメリ郡で綿作を行いジン工場を経営している山下農場の山下アキラ氏作成の2009年7月作成の綿花栽培コストからジン加工までの諸経費の明細はつぎのようであった。

ヘクタール当たり R$
(1)作業諸費用 植付費(種子植付と施肥)殺虫殺菌作業、追肥作業、収穫作業 1044
(2)肥料NPK 6-16-16 400キロ
NPK 20-0-20 470キロ尿素 110キロ 1455
(3)殺虫剤19種類 929
(4)殺菌剤4種類 221
(5)葉面散布肥料 182
(6)葉面貼着剤 29
(7)成長抑制剤 65
(8)除草剤9種類 394
(9)熟成促進剤と落葉剤 50
(10)ジン費用(繰綿費用) 890
(11)運送費用 234
(12)管理費 257
合計 5750(米ドル為替US$1・00=R$1・8726、31.julho.2009)
 1950年以降のサンパウロ州の綿作地帯は肥沃な土地を求めて州の北部から北西部へ移動する傾向にあった。特にリオグランデ河の沿線は平坦地が多く、綿作には理想的であった。

1792年イーライ・ホイットニー発明の繰綿機械

 1930年代から40年代にかけて州の西南部に設立されていたジン工場の多くは北西部へ拠点を移動した。綿花種子もIACの改良種が出回り、施肥も充分行われ、耕作技術も改良されて、生産性は1940年代までヘクタール当たりの実綿生産が1千キロ前後であったものが1500キロ近くまで増産となった。
 サンパウロ州の綿花栽培の発祥地であったカンピーナス付近に於ける綿作は、付近一帯に工業化が進み、また農地が住宅地に変化していったこともあり、また砂糖黍が農地の大部分に植え付けられたこともあって、綿作がほぼ姿を消した。
 サンパウロ州の綿花生産は1990頃までほぼ20万トンの生産を維持したあと、1995年まで10万トン前後、そのあと2008年以降は急激に生産が落ち込み、2016年には僅か4千トンとなり、その後若干生産を取り戻し、2020年には1万7千トンとなった。
 サンパウロ州の綿作減退の主な理由には、肥料農薬等資材の高騰による綿作の採算悪化、小中自作農の限られた面積で採算がとり易い柑橘類の栽培、ユーカリ植林、競合作物である大豆の栽培増加、それにも増して砂糖黍栽培の大幅な増加の他、綿作が機械化、特に収穫作業は収穫機なしではやっていけなくなったことなどがある。
 これは季節労働者の綿摘みが繊維だけを取り出す作業からボールの殻ごと摘み取り重量を稼ぐようになり、品質が著しく落ちる結果となり、収穫機による摘み取りが必須となったが、収穫機は高価なもので小中規模の綿作では採算に合わなくなった。
 また1983年にカンピーナスに発生した害虫ビクードの蔓延も綿作意欲を大きく削ぐこととなった。それと季節労働者が労働権利を裁判に持ち込むことが多くなり、裁判官は労働者に有利な判決を下すことが多く、これが綿作農家の経済を圧迫した。
 サンパウロ州の綿作は中小自作農と借地農によって行われ、面積は100ヘクタール以下の綿作者が殆どであり、生産された実綿を繰綿工場へ販売する形式であった。
 綿作者の営農資金はブラジル銀行が融資を行ったが、資金不足分は繰綿工場の青田貸しで補充していた。繰綿工場は綿作者の採算悪化により貸付金が回収出来ず、不良債権を抱える結果になった。繰綿工場は減反していく綿花栽培による実綿の集綿競争激化により、実綿値段が吊り上がるため採算悪化、廃業をしていく繰綿業者が続いた。
 サンパウロ州の綿作は減反を続けて現在残っている綿作地は、パラナパネマ郡のオランブラ組合傘下の綿作地、レーメ郡、州北西部のリオランジア付近、マルチノポリス郡等であり、サンパウロ州の生産が2013年以来1万トンを割る程激減した後、2019年と2020年は2万トン近くに戻した。

◎パラナ州綿作の衰退

 パラナ州の綿作は小中自作農家を中心として、衰退していったコーヒーに変わった作物は綿花を主体として、あと大豆と小麦であった。日本人移住者の集団地であったアサイーからパラナ州でも、最も古くから開拓されたマリンガ地方は土地が肥沃で綿花栽培が広く行われた。 
 パラナ州綿花の生産は1979年迄10万トンであったものが、1980年以降20万トン、1985年から1992年まで30万トン前後に増加し、30万トン以下の生産に減じた。1996年迄の17年間ブラジル綿花の最大生産州であり続けた。
 1996年生産12万トン生産のあと、翌年1997年の生産は4万トンへ激減、その後は毎年減産を続け、2020年には1千トンとほぼその姿を消すに至った。
 パラナ綿花衰退の原因は連作による土壌の流失・有機質の不足・肥料農薬類の農業資材の高騰・大豆、小麦、砂糖黍等への転作・労働問題のほか、中小規模の綿作では機械化を進めるためには耕作面積が少ないと採算がとれなくなった事等である。

◎ミナス州とゴイアス州綿作

 サンパウロ州北部に隣接しているミナス州の三角ミナスは、以前には綿作が盛んであったが、サンパウロ州と同様資材の高騰・採算に合う競合作物への転業・砂糖黍の面積増大等により綿作は衰退していった。
 ミナス州の綿作は三角ミナス近辺の綿作が衰退したあと、2000年頃から北ミナスのバイア州西部に隣接した高原地帯を中心に技術改革され、機械化された大規模営農が始められた。
 ミナス州の綿花生産は1960年代から、2万トンから3万トンで大きな変化がなく推移したあと、2019年と2020年は7万トン近い生産を記録した。これは北ミナスの高原地帯の生産が増加したことを示している。
 ゴイアス州の綿花生産は1970年代から1995年まで2万トンから3万トンで推移したあと、2000年の9万トンまで増加、2001年から2012年まで10万前後の生産を記録した。2013年には10万トンを割ったまま、2020年の生産は7万トンの生産となった。この減産の原因として前田グループの綿作からの撤退がある。
 ゴイアス州の現在の綿花栽培は、バイア州西部の高原続きの平坦地を主に行われている。

◎大規模機械化綿作

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 ブラジルの綿花栽培は北東伯に始まり、サンパウロ州パラナ州からミナス州、ゴイアス州へ拡大していったが、それぞれの州の自然的立地条件・競合作物との関係・経済問題・ビクードの蔓延・労働問題等により移動または衰退を経てきた。
 ブラジルの綿花年間生産量については、CONAB(ブラジル国家食糧配給公社)の資料で、1977年以降のブラジル綿花年間生産量統計表で見ると、58万7千トンを生産した1977年のあと1992年には66万7千トンを生産し、この16年の間年産60万トン前後の生産で推移したが、1993年から減産となり年間生産40万トン前後迄落ち、1997年には30万6千トン迄落ちた。
 1960年代から急速に発展したブラジル綿紡工場が消費する綿花は、国内生産の綿花で補ってきて余剰の綿花迄輸出されていたが、1980以降は紡績の消費が生産を上回り不足分は輸入綿花で補ってきた。輸出綿花は2000年迄ほぼぜロとなっていた。
 1990年代には国内原綿消費は80万トン前後となり、30万トン前後は輸入綿でカバーされていたが、1996年と1997年は国内生産が減ったため 45万トン前後の原綿が輸入されるに至った。
 この傾向は2000年まで続いたが、2001年以降はブラジルの綿花生産がマット・グロッソとバイア両州で綿花生産が急速に伸びて、ブラジルは中国・米国・インド・パキスタンに伍する綿花輸出国となり、ブラジルの綿花輸出量は2001年以降年間10万トンから急激に増大し、2020年には190万トンとなった。
 マット・グロッソ州は1977年に南マット・グロッソが分離される迄綿作は殆ど行われていなかった。
 CONABの記録では1979年から1984年まで年産1千トン程度の生産で、1985年より徐々に増えはじめ、1997年まで年産3万トン程度の生産であったが、1998年より爆発的に増加、数年を経ずして年産50万トン前後となり、さらに2012年には105万トンを生産、さらに2020年には210万トンを記録した。
 マット・グロッソ州はブラジル中西部に位置し、パラナ河とアマゾン河系を分ける分水嶺が中央にあり、広大な高原と河川を有し、適度の降雨に恵まれ大型機械化農業の自然条件を備えている。
 2000年に入ってからブラジルの綿花栽培は海抜7~800メートル以上の平坦で大型機械化農業ができる高原に移動していった。高原地帯は夜間の気温が穏やかで、昼間炭酸同化作用で蓄えられたエネルギーは夜間に消費されることなく蓄えられるため、農産物の生産性がたかい。
 パラナ州とサンタカタリーナ州の中小自作農家は農業経営の拡大を目指し、所有する土地を売却して、当時割安であったマット・グロッソ州の未開の土地を買い求め、綿花・大豆・玉蜀黍の大規模営農を拡大していった。
 バイア州の西部には広大な平坦な高原がある。海抜900メートルの高原地帯で、降雨は年間1500から1800mmで安定、日照時間が長く、土壌は有機質が少ないが砂質は35%前後で理想的である。
 バイア州高原は農耕地として開発された歴史は新しく、未開拓当時の時価も安価であったため、個人当たりの農耕面積は他州に比して広大で、綿作面積も数千ヘクタールのところが多い。
 バイア州の綿花生産は2000年代までは低地帯に於ける綿作が主で、4万トン前後の生産であったが、2001年から高原地帯の綿花栽培が飛躍的に増え始め、2005年に31万7トンを記録、その後は10年以上年間生産35万トンから45万トンを続けたあと、2018年から毎年の生産は50万トンを超え、マット・グロッソ州に次ぐ生産州となった。
 バイア州の綿作は未開拓の可耕地が多いため今後さらに生産が増えていくものと予想される。

◎高原地帯で大型綿花農場を経営する日系企業

 バイア州に於ける日系人大手綿作者としては堀田グループが挙げられる。堀田グループはパラナ州から1984年度バイア州に拠点を設立。現在所有地は6ケ農場で15万ヘクタール、耕作面積綿花3万8536ヘクタール、大豆と玉蜀黍6万641ヘクタール、ジン工場3ケ工場、綿花生産はヘクタール当たり実綿4500キロ、原綿40%歩留1800キロ、3万8536ヘクタールで7万トン(推定)。
 溝手(MIZOTE) グループ。バイアで35年。所有農地3万8500ヘクタール、綿作9500ヘクタール、大豆と玉蜀黍1万5千ヘクタール、原綿生産1万7千トン。

ゴイアス州の日系綿作者

 平(HIMOHIRA) グループ。サンパウロ州イツベラーバで綿作開始、1970年以来ゴイアス州イツンビアラに拠点。
所有農地1万8千ヘクタールのうち綿作6300ヘクタール、原綿生産1万1千トン。
 三氏はサンパウロ州とパラナ州で綿作を永年経験し、その経験をもとに高原地帯の大型綿作にチャレンジし実現した企業家である。(終わり)