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安慶名栄子著『篤成』(23)

 みつ子は回復するや否や、すぐにジュキアー市の学校に入学しました。友達が一人いましたので、2人して約10キロの道を毎日歩いて学校へ行くようになりました。
 その頃すでに13歳になっていた私は、隣に住んでいる人に裁縫の基礎の型紙や布の切り方、ワンピースの縫い方などを教えて頂きました。そこから益々裁縫に興味が増し、お裁縫の学校に行きたかったが、近くにはなかったため、ブラジルユニバーサル協会 (Instituto Universal Brasileiro) という遠隔講座学校に入会しました。
 私たちが住んでいたところには日本人家族が数多く暮らしており、全員バナナを栽培していました。ある日、流産をしてしまった女性の方が重度の貧血状態に陥ってしまい、町の薬剤師から翌朝一番の便でサントスまで行ってお医者さんに診てもらうように言われました。サントスまで行かないと専門の医師と大きな病院が整っていませんでした。
 でも、常時バナナ栽培に携わっていたその女性は、サントスまで行く服すらもなく悩んでいました。せめてサントスまで行くためのワンピース一枚をと、私は夜通しで縫物をし、彼女が朝一番の電車に乗るのに間に合わせることが出来ました。幸いに彼女は回復して戻ってきました。
 数か月後、同じ状況で今度は4歳の男の子が病気でサントスへ行かなければならなくなってしまいました。男の子の服はどの服でもバナナの灰汁の染みが付いていました。
 その時も私は夜通しで服を縫ってサントス行きの朝一番の汽車に乗れるように仕立ててあげました。でも不幸にも男の子は持ちこたえられませんでした。
 お母さんは泣きながら、自分には大きな悔いがあると話していました。それは、あの子が3歳の時からバナナの灰汁の染みが付いていない服を着たいと、そしてボタンのついていない服は着たがらなかったので、体罰まで与えて自分が着せる服を着なさいと命じたそうです。何故かというと、兄弟たちは皆母親が着せる服を素直に着ていたのに、この子だけが拒み続けた。母親はその態度が理解できなかったのでした。あの子の思い通りにしてあげれば良かったと心から悔やんでいました。そして、泣きながら、あの子はこの世に短い間しかいないことを知っていたかもしれない、もうお別れが近づいていたのを潜在的に感じて、いい服を着て残り少ない時間を過ごしたかったに違いない、と語っていました。
 でも、もう遅かった。悔やんでも仕方がない。甘えん坊に育てたくなかった母親の気持ちから、そのような態度をとったのだから本当に仕方がなかったと思いました。このエピソードは、私の思春期の悲しい思い出として残ってしまいました。
 だが、たとえ一方が悲しい結果に終わったとしても、人助けのチャンスに恵まれたことに私は、本当にありがたく思いました。父に教わった「人助け」。自分たちが他人に助けられたように、自分たちも常に他人の手助けになるように努める精神が育まれていたのでした。