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安慶名栄子著『篤成』(24)

 さて、バナナ栽培に携わっていた農夫たちの人生は、左程負担ばかりの人生でもありませんでした。多くの日本人の家族が地域で一緒に暮らしていましたが、共に働き、皆助け合いの精神で頑張っていました。特に沖縄県人は、現在までそうであるように、集まって歌い踊るのが大好きでした。子供が生まれると、命名記念として皆で集まり、大きな催しが開かれるのでした。子供の1歳の誕生祝いもまた大きな催しになりました。そんな時には必ず故郷を思い出し、三線の音に沖縄の歌が伴いました。
 父は相変わらず毎日働いていました。彼とトラジリオのふたりだけで。父はバナナを2房、トラジリオの背中には4房ぶら下げて、毎日何回も丘を登ったり、下ったりしました。
 あの姿を見ても私には何もできない無力さを感じ、私は夜誰にも聞こえないように一人で静かに泣くばかりでした。
 父の厳しい仕事はいつまで続くのかと思うばかりでした。そして、またも父の頭上に黒い雲が降りてしまいました。
 常時共にいたトラジリオが亡くなってしまったのです。父の心は鉄のように頑丈になったのでしょうか。愛するものを亡くしてしまう場面に何回も直面し、号泣していた父は、今回はただ悲しい人になってしまいました。私はまた父の深い悲しみを感じ、一人で泣き、いつか父を幸せにするとまたもや心に誓うのでした。
 トラジリオが亡くなったのは1954年6月の事でした。ちょうどその時期に、サンパウロで暮らしていた兄がサンジョアンの宝くじの一等賞をもらい、金製の腕時計を四つも持って帰ってきました。
 神様からのお恵みに違いない。20年余の友を亡くしたばかりの父の慰めに神様は息子をお使い召されたのでした。兄は、直ぐに自分が暮らしていて沢山の友達が住んでいるサンカエターノ・ド・スール市に私たちを連れていく決心しました。私たちにはまだ父の悲しみを和らげる力がなかった、ちょうどその頃でした。

第12章  田舎から都会へ

 そのようにしてサン・カエターノ・ド・スールで新しい生活が始まりました。
 1954年でした。兄は玉突き(ビリャ―ド)設備が付いているバールを購入、私たち姉妹がバールの方を担当し、父がビリャ―ドの方を受け持っていました。
 当時のバールに通っていた若者の間ではハボ・デ・ガーロ(rabo-de-galo)という強いお酒のカクテルが流行っていました。
 いつものように父を幸せにしたいと思っていた私は一生懸命働きました。朝4時から始まり、間に4時間の休憩を取っていましたが、お店の閉店時間まで毎日働きました。
 ある時期、お店の周辺に北アメリカからの大きなサーカス団の会場が設営されました。その頃、「喋る七面鳥のキャラバン」(Caravana do peru que fala) という種目が演じられていましたが、出演者たち数名が演出前にお店に寄ってくれていました。その中にシルヴィオ・サントス、カルロス・アルベルト・ダ・ノブレガ、モアシール・フランコさんなどがいました。