安慶名栄子著『篤成』(27)

 兄の家でお世話になり始めた私は、ペードロ・コライネという友人の仲介で、ブラジテックスという会社の研究所で務めるようになりました。その会社は後にバスフ(Basf)研究所になりました。
 バスフでは月曜日から金曜日まで、朝7時から夕方の5時まで務め、月、水、金の夜7時から10時までは裁縫の教師として働き、美容師の免許も持っていたので、土・日には近くの美容院で働きました。
 娘がいつもお友達のところでピアノのお稽古をしていたので私は、娘にピアノを一台買たいという気持ち一筋で頑張りました。その甲斐があり、うんと節約した結果、結構いいピアノを購入する事が出来ました。
 それに、あの「父を幸せにしてあげる」という夢はまだ心の中に強く残っていました。この時期も、父は相変わらず私の喜怒哀楽の人生をずっと見守ってくれていました。
 さて、私が勤めていた会社がヂアデーマという町へ引っ越してしまい、私が通うには遠くなったので、トロール (Trol)という玩具製造業者の医務室で、看護助手として働くようになりました。
 その後、洗濯屋をしていたある日本人家族が会社を売り渡したいという話を聞き、父は興味を持ち、交渉に入ったと思ったら、すぐにその会社を買い取りました。私と父、そして義姉のシゲ姉さん、3人でスタートしましたが、その頃に父が幸せそうに仕事に専念しているのが感じられました。
 私の甥の篤尚(あつよし)は、まだ子供でしたが私と一緒に働くのがとっても好きでした。私はその頃土曜と日曜も働いていたので、彼は大人のように私に付き添い、一緒に働きました。そして月曜日の午後からは篤尚の妹、チエミちゃんが私と一緒にお客さんの家を回って洗濯物を回収するのでした。
 ある日の午後の事でした。家に帰る途中、父がいつもの親友とビリャ―ドをしていました。私はそれを見て生まれて初めて喜びの涙を流しました。それまでの父は、特にサンカエターノに引っ越して以来常に心配そうな顔つきをしておりましたが、あの時は友人とくつろいで、穏やかなリラックスした表情でした。
 どんなつらい時期を通過していながらも、父は沖縄県人会には積極的に参加しました。姉のよし子と義兄のマリオ、二人でいつも父をいろんな用事に連れて行くのでした。そして父は雄弁だったので結婚式があると、沖縄伝統のしきたりの通りのあいさつを述べる式辞などにいつもお願いされていました。
 ある日、父は母の最後の法要をしたいけど、自分の家でするのが一番いいから、延期しているのだとこぼしました。そのころまではずっと貸家に済んでいたのでした。
 仏教では故人の冥福を祈り供養する最後の法要は、33年忌の法事で執り行われます。私は直ぐに義姉に相談し、少し貯めていたお金を集め、銀行からまた少し借り入れ、さらに父が兄たちの戦死の遺族年金を全部まとめて、家を探しに出かけました。
 毎週月曜日には洗濯物の回収を手伝ってくれていたルールデスという親友がいましたが、彼女がサントアンドレ―市に新しい住宅地ができ、とてもいいお家が並んでいると教えてくれたので、直ぐに見に行きました。