安慶名栄子著『篤成』(35)

 父は口癖のように「従業員への感謝の気持ちだけは忘れるな。1人だと手が2つしかないけど、従業員がいればそれが200にまでなる。常に感謝しなさい」、といつも言っていました。
 洗浄加工の方でも若い青年たちは皆とても努力家でした。必要に応じて夜通しで働き翌日の配達に必ず間に合わせるのでした。文句一言も言わずに。
 乾燥の方にも大変な努力家がおり、周りの者からもとても感心されている従業員がいました。ある日、彼は怒って「僕は洗浄加工のものよりうんと働いているのに給料が少ないとはどういうことだ。昇給してほしい」と。
 私は「あなたの仕事ぶりはうんと認めているけど、ルールに従わなければならないし、各部署の責任者以外は皆同じ給料なのよ」、と説明をしたが、まったく聞く耳を持ちませんでした。そこで、彼が実家に戻らなくなってからもう8年もたっていたのを知っていた私は、彼に休暇を早めて実家でクリスマスを過ごすように休みを取るようにと勧め、帰ってからまた話をしましょうと提案しました。
 彼は渋々受け入れ、事務所を出ていきました。後になり、実際には友達が給料を多く貰っていたのは仕事仲間の冗談だったという事が分かったのです。
 休暇から戻ってきた彼は、恥ずかしそうに「許してください」というのでした。「え、なぜ?」と聞くと、「社長は間違ったことは一度もしたことがない。この会社では僕たちは朝ごはん、昼食、午後のおやつ、そして残業をすると夕食まである。だが給料からは1センターボも引かれない。僕の父は朝早くサトウキビを刈りに出かけるのだが、炎天下でもあそこの社長は水さえくれないし家からお弁当を持って行かないと食べるものもない。それに一日の終わりには10レアイスしかもらえないのです。それなのに僕は社長に文句を言ってしまいました。すみません」というのでした。
 私はそんな可愛い子たちと仕事をさせて頂き、毎日が喜び一杯でした。
 彼が「炎天下で働くお父さん」の話をした時に私の脳裡には、暑い日も雨の日も、また凍えそうな寒い日でも、毎日毎日丘の上からバナナをかついできてはトラックに積み、それをいっぱいにしてジュキアー駅で降ろす。荷を積んだ汽車はサントス港まで行き、そこからバナナは船でモンテビデオへ届けられたあの日々の父の姿が浮かんできたのでした。父の無休で働いている姿を思い出しながら毎晩枕の上で泣いていた自分のことを思い出していました。
 でも、そんなことはもはや過去の事となり、ゆっくりできるような週末があると、必ずどこかへ父と甥や姪たちと一緒に遊びに行く事が出来る時期になっていました。

第22章  さようなら

 1990年7月4日。私の誕生日でした。毎年のように従業員たちがケーキを準備してくれました。当時は、マリオが病気で出社していなかった時期でしたので、皆でケーキを持って彼の家に行きました。
 彼は、いつも以上に機嫌がよく、みんなと本当に幸せそうに話しました。夜の11時も過ぎたころに、サントアマ―ロに住んでいる人もいましたし、もう遅くなっていたのでみんなお暇をして別れを告げました。