安慶名栄子著『篤成』(36)

 私はマリオの家から10分位の所に住んでいましたが、家に着いた途端に電話が鳴ったのでびっくりしました。マリオの妹でした。彼が急に具合が悪くなったので来てくれないかとの電話でした。数分も経たなかったがすでに手遅れでした。30分ほど前まではにこにこしながら皆を相手にし、来てくれてありがとうと、幸せそうな笑顔でドアのところに立っていたとは信じられないと思いました。この世を去る間際まで彼は、「笑顔と感謝の心」の模範を私たちに残してくれたのでした。
 数年前、満面の笑顔で彼は、20年も前から癌という病と闘っており、家族には何も話していないのだと打ち明けました。私はその話と、「お金を儲けるには5年しかない。栄子も年だから、金儲けは今のうちだ」、という彼の言葉とは直ぐには結びつきませんでしたが、その言葉を思い出し数えてみたら、一緒に会社を立ち上げたのはちょうど5年前の事でした。本当に不思議でたまりませんでした。
 マリオが亡くなったと聞いた従業員達は私に近づき、「えい子さん、えい子さんが必要なこと、何でも言ってください。私たちは栄子さんの力になれるのなら、何でもやりますから」と語りかけてくれました。
 そんな言葉に私は本当に慰められ、感激のあまり涙が止まりませんでした。それ以後も私は働けるだけ働きましたが、父をそっちのけにはしませんでした。会社の経営は順調でありましたし、父が行きたいところにはほとんど連れて行ってあげる事が出来ました。

第23章 初の沖縄旅行、そして従業員の慰安旅行と孤児院

 父には、私たちに沖縄の家族に会ってほしいという夢がありました。それで、私と父と義姉の3人で行くことにしました。
 沖縄に着くと、もう毎日が宴会続きでした。従兄達は、私たちを歴史的ないろんな場所に連れて行きましたが、どこも素晴らしいところばかりで最高でした。
 父は是非「平和の礎」を訪ねようと、皆で平和祈念公園へ向かいました。そこに着くと、沖縄戦で命を落としてしまった方々の名前が刻印された無数の黒い石板がずらりと並んでいました。慰霊碑には沖縄出身の兵士や住民だけでなく、日本兵士やアメリカ兵士、敵味方関係なく戦争で命を落としてしまった全ての戦没者の名前が刻まれていました。父はすでに私の2人の兄の名前が刻まれている刻銘碑の場所を正確に知っていました。
 私は兄たちに会ったことが無かったが父の深い愛情を知っていました。無数の思い出、限りなき恋しさ。父はどんなに兄たちと一緒にもう一度暮らしたかったか。でも運命とは不思議なもので自分たちの想像や願望とはかなりかけ離れた結果をもたらすことがあります。私は、今までの人生や特に父に関して深い感謝の気持ちのみで泣くまい、気を引き締めようと、必死でしたが、熱い涙が勝手に溢れ出てくるのでした。
 また、私の親友である板垣愛子さんのお父さんの慰霊碑も訪ねました。愛子さんとは以前大阪の富田林を訪れた時に初めて出会い、それからはずっと親しく付き合っていました。彼女のお父さんは第二次世界大戦中、日本海軍に属し沖縄戦で海軍の指揮をとった大田実司令官でした。