特別寄稿=太平洋戦争下の日本・沖縄県人移民の苦難―――サントス事件を中心に=ブラジル沖縄県人移民研究塾代表  宮城あきら=総力あげて検証する沖縄県人会=《4》

【4】埋もれたサントス事件の発掘

(1)偶然の歴史的資料の発見――「強制立ち退き時のサントス在住日本人の名簿と立ち退き先」

戦中に強制立ち退きを受け、戦後ずっと陸軍施設として利用され、日本移民百周年を機にようやく日系社会に返還されたサントス日本人会館(旧サントス日本語学校)

 2016年8月のある日、沖縄在住のドキュメンタリー映画監督松林要樹氏は、サントス日本人会館を訪ねた。受付の片隅に無造作に置かれている印刷物に何げなく目をやっていると、「1943年の強制立ち退き時の…」という言葉が目に入った。一瞬彼の職業的臭覚が働き、「歴史的な重要資料ではないか」、と直感したのであった。係りの方の了解を得て文書をめくってみると、強制立ち退きを命じられたサントス在住日本人の戸主名が地区ごとに書き込まれている。しかもその氏名のほとんどが沖縄県人に独特な苗字である。サントスから追放された人々の大半が沖縄県人移民であることがありありと判るのであった。
 松林氏は直ぐにニッケイ新聞編集長深沢正雪氏と連絡をとり、また本誌編集長に事の成り行きを告げ、そして9月15日に深沢氏の呼びかけで、映画『闇の一日』の監督奥原マリオ、松林要樹、山城勇、宮城あきらの5人で現物資料を見ながら語り合った。
 私たちは、このサントス事件が枢軸国3国の中の日本及びドイツ人移民を特定して、「スパイ通報」の罪名をデッチ上げて24時間以内退去を強制したという、ブラジルの歴史上かつてない差別的弾圧事件でありながら、当の日系社会において重要視されることなく事件発生から70年以上も歴史の闇に放置されていることについて語り合った。
 そして今回発見されたこの文書が「第一級の歴史資料」であること、この「資料」を裏付ける証言の重要性などについて確認し、それぞれが、そ
れぞれの部署で調査・究明の努力をしていくことを確認したのである。
 ところで、この歴史的文書は誰が作成したものであるのか、について、早速松林氏の調査によって、第2次世界大戦当時からサントス日本人学校の教頭であった故柳沢秋雄氏であることが判明した。柳沢氏は、長野県出身で同県立師範学校卒業後にブラジルに渡り、戦時中ブラジル政府による国交断絶直後に日本総領事館が総引き揚げした後にスペイン領事館代行日本領事部に勤務し(1942年―45年3月)、戦後はスウエーデン領事館代行日本領事部に勤務していた(1945年4月―1952年)。そして日伯国交回復後のサンパウロ日本総領事館に1980年まで在勤した。
 柳沢氏がどの時期にこの『資料』を作成したかは、恐らくスペイン領事館代行日本領事部時代ではないかと言われている。
 私たちは、この『資料』作成に秘められた柳沢氏の志を受け継ぎ、サントス事件の実態を明らかにするために、この『日本人名簿』を基にあらゆる角度から調査・分析し、証言取材に全力を注いだのである。そして事件発生以来77年間も埋もれたままの歴史を掘り起こして、その全体像を明らかにしていくために『群星』に証言を継続掲載してきた。また沖縄県人会が主催する真相究明と連邦政府への謝罪要求の請願運動に積極的に参加し、「スパイ通報」の汚名を着せられたわが先人たちの名誉回復を目指してきたのである。

2018年4月19日、ブラジル沖縄県人会の定例役員会で謝罪請求運動への協力を要請する奥原マリオ純さん

(2)数々の証言が問う歴史の真実

 さて、私たちブラジル沖縄県人移民研究塾は、松林要樹氏から提供を受けた『強制立ち退きサントス在住日本人名簿と立ち退き先』を検討・分析し、これを『群星』第3号に全面掲載すると同時に、事件当時の生存者を調査しその証言を取材する活動に全力を上げることを確認した。
 私たちは、『名簿』を基に沖縄県人会サントス支部の呉屋ジョゼ・カルロス支部長、玉城幸盛、伊良波朝昭氏ら支部役員の皆さん、同県人会サント・アンドレー支部役員の皆さんの協力を得て、矍鑠として元気な生存者当山正雄(事件当時20歳)さんと橋本ルイスかずえいさん(同13歳)にお会いすることができ、当時の苦難この上ない証言を得ることができた。
 また、70年の歳月を経て返還を勝ち取ったばかりのサントス日本人学校を表敬訪問し協力への感謝を表した。そしてサント・アンドレー市在住の屋比久トヨさん(当時10歳)及び津波正一さん(当時13歳)ともお会いし取材した。そして『群星』第3号に掲載した(139頁―146頁参照)。
 これらの証言は、事件当事者たちが初めて重い口を開いて、武装兵の強圧の中で着の身着のまま街を追われ、サンパウロ収容所、そして近隣都市、奥地へと流浪し、辿り着いたマリーリアで反日の差別的偏見に直面して苦しんだこと、また騒乱の中で夫と連絡も取れずに3人の幼きわが子を抱えて恐怖と孤独の中で精神の病に至ってしまった姉の姿が語られた。さらに島人を頼って辿り着いた農地で鳥小屋を借りて生活せねばならなかった苦渋の日々が語り綴られて大きな反響を呼んだ。
 そして次々と新しい証言者が現れた。佐久間正勝ホベルト、嶺井昇、比嘉オデナッテゆうせい、照屋オズワルド、花城エウザセツ子、比嘉アナマリア、新里しんき・しんえい兄弟の各皆さんだ(『群星』第4号97頁―117頁参照)。
 これらの証言者たちは、沈黙の堰が取り払われたかのように、サントスを追われ奥地へと流浪し生き延びた日々のこと、重くつらい歴史の真実を語り始めたのである。そしてカンポリンポ在住の具志堅栄勇、具志堅ハル、比嘉勝、神谷じょすけ、金城アリセ、金城栄助、野原栄孝の皆さんは、進んで証言インタビューに応じてくれた(『群星』第5号グラビア参照)。
 また具志堅古三郎家の人々も証言した(本誌236頁参照)。

#gallery-1 { margin: auto; } #gallery-1 .gallery-item { float: left; margin-top: 10px; text-align: center; width: 50%; } #gallery-1 img { border: 2px solid #cfcfcf; } #gallery-1 .gallery-caption { margin-left: 0; } /* see gallery_shortcode() in wp-includes/media.php */

 2019年7月14日には聖市セントロのサンゴンサーロ教会においてサントス強制退去事件を追悼するミサが行われた。奥原純マリオ映画監督、上原定雄ミルトン沖縄県人会長、島袋栄喜、宮城あきらが参列し、教会司祭に感謝と連帯を呼びかけた。
 また邦字紙『ニッケイ新聞』は、『群星』の証言取材の取り組みを大きく報道すると同時に独自に証言インタビュー連載記事「サントス強制退去の証言̶その日何が起きたか」(有馬亜希子記者)を7回に亘って連載した(2019年12月12日―20日号参照)。
 この連載記事も日系社会に忘れ去られていたサントス事件の重大性を改めて問いかけていく力となった。沖縄の『琉球新報』並びに『沖縄タイムス』にも『群星』掲載の『名簿』と証言取材の取り組みが報道され、反響が広がりサントス事件への関心が高まった。
 またブラジル沖縄県人会・沖縄文化センター(島袋栄喜会長 当時)は、2018年5月24日に奥原純マリオ氏の要請を受けて、ブラジル連邦政府にたいして「ブラジル日本移民にたいする誤りを認めることを求める請願書」を本部理事会において審議し、全会一致で決議した。そして5月24日に、同県人会本部会館においてサントス事件をめぐるシンポジュームを開催し、連邦政府が事件から75年を経過した今日においても、「スパイ通報」という汚名を着せられ無謀な差別的措置を強制され、塗炭の苦しみを強いられた私たちの先人移民にたいし、一遍の反省も謝罪もなく無言のままであることを糺し、連邦政府が過去の歴史を振り返り汚名を着せられたわが県人移民をはじめとする日本移民の名誉回復に真摯に向き合うべきことを訴え、謝罪を求める方向性を明らかにしたのである。
 2019年12月11日に沖縄県人会・沖縄文化センターは、連邦政府人権・家族・女性省管轄下の恩赦委員会に奥原純マリオ映画監督と共に上原定雄ミルトン会長、島袋栄喜前会長、宮城あきら『群星』編集長からなる代表団を派遣し、『サントス事件における日本移民及び沖縄移民にたいする過ちを認めることを求める請願行動』を行い、あらためて請願書を手交した。
 要請の会議は、担当の2人の女性弁護士との間で2時間近い異例の長時間にわたり(通常の要請時間は20分程度)、真剣な聞き取りと論議が行われた。ブラジリアにおける初めての要請行動としては大変有意義であった(当日の要請請願書は本誌246頁、また第1回目の「ブラジルの日本移民に対する誤りを認めることを求める請願書」は本誌第4号124頁―127頁参照)。
 さらにドキュメンタリー映画監督松林要樹氏は、証言撮りに執念を燃やし、49分間のドキュメンタリー映画『語られなかったサントス強制退去事件』を製作し、2019年12月19日にNHKから日本語版、英語版が放映された。歴史に埋もれていたサントス強制退去事件が電波に乗って日本全国、またブラジル全国、そして世界へと波及した。
 このように証言者たちが語り、これを通して問いかけられるサントス事件をめぐる歴史の真実は、まさに24時間以内退去を強制された6500名余の日本人・沖縄県人移民の生存権そのものを脅かす重大な差別的人権弾圧そのものであり、しかもそれは、「スパイ通報」という無実の罪をデッチ上げて強行された当時の連邦政府による強権発動そのものであったのである。
 サントスを追われ、営々と築き上げてきた財貨を失い生活する場所を奪われ、人権を踏みにじられゼロからの再出発を余儀なくされた先人たち。彼らは、戦争が終わった後のサントスにも帰れず、サンパウロ市やその周辺都市、さらには聖州奥地の農村で新しい職業を模索しながら生活基盤を確立するために、「勝ち・負け」抗争があれ荒ぶ日系社会の中にあって、辛酸この上ない戦後を生き抜かねばならなかった。

『オキナワ サントス』(松林要樹監督)公開予定:▼7月31日(土)より【沖縄】 桜坂劇場にて先行上映▼8月7日(土)より【東京】シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開(https://okinawa-santos.jp/)

 そして必死にわが子らを育て上げ、教育に力を注いだ。その子弟たちは、今日ブラジル社会のあらゆる分野に進出し、医師、歯科医、事業家、エンジニア、弁護士、大学教師、銀行員、政治家などとなって、ブラジル社会の一員として社会発展に貢献している。
 私たちは、戦時下の苦難に耐え戦後を生き抜き、ブラジルのウチナーンチュとしての家族形成とわが子らの社会への進出の基盤を切り開いた祖父母や先人たちに深い感謝と敬意を込めて、「スパイ通報」の汚名を着せられた過去の歴史の名誉回復を期して、連邦政府が過去の誤ちを反省し謝罪することを求め続けていかなければならない。それと同時にサントス事件を今後とも探求し続け、ブラジル日本・沖縄県人移民史構成の中にその全体像を明確に位置づけ、より深く究明し続けていかなければばらない。
 わがブラジル沖縄県人移民研究塾は、『群星』誌上を通じて今後ともその究明と探求を継続していく所存である。(2020年7月8日 サントス強制退去事件から77年)〈終わり〉

★2021年7月29日《ブラジル》特別寄稿=太平洋戦争下の日本・沖縄県人移民の苦難―――サントス事件を中心に=バルガス独裁政権と枢軸国移民迫害=ブラジル沖縄県人移民研究塾代表  宮城あきら=《1》

★2021年7月31日《ブラジル》特別寄稿=太平洋戦争下の日本・沖縄県人移民の苦難―――サントス事件を中心に=産気づく人、寝込む人、流産する人まで=ブラジル沖縄県人移民研究塾代表  宮城あきら《2》

★2021年8月4日《ブラジル》特別寄稿=太平洋戦争下の日本・沖縄県人移民の苦難―――サントス事件を中心に=タブーとなって歴史の闇に=ブラジル沖縄県人移民研究塾代表  宮城あきら=《3》

★2021年7月27日《記者コラム》ブラジル近代史に残る日本移民迫害事件を初めて描いた映画『オキナワ サントス』

★2019年12月12日《ブラジル》サントス強制退去の証言=その日何が起こったのか=(1)=銃を持った警官が退去命令

★2016年12月8日《ブラジル》サントス日本人学校全面返還=戦時下で接収、73年経て=終わる「コロニアの戦後」