《特別寄稿》サントス事件と家族の記憶=テーブルの下に隠れた妊娠7カ月の母=聖市在住 比嘉玉城アナマリア(翻訳:建本みちかマルリー)

戦争で生き別れとなったオジーと長男和男の悲しみ

比嘉玉城アナマリア

 私のオジー(おじいちゃん)宮城喜孝は、1940年に私の叔父である長男の宮城和男(当時9歳)を連れて、沖縄県南城市(旧佐敷村馬天)へ戻りました。叔父を日本の学校へ通わせるための一足先の帰国であり、また沖縄でより良い生活を送るために後数年間仕事に励むことになっていた家族を沖縄で待つことになっていました。
 ところが、1942年1月15日にブラジルは日本及びイタリア、ドイツとの国交を断絶し、私が聞いた話によりますと、オジーは戦前最後の日本からの移民船でブラジルへ戻ったそうです。
 沖縄に一人残って親兄弟と離れ離れになり、過酷な戦争を一人で乗り切らなければならなかった和男のことを思う家族はやりきれない思いでした。叔父和男は、夫に先立たれ子供もいなかったオジーの義理の妹に面倒をみてもらっていました。
 親兄弟と遠く離れたまま悲惨な沖縄戦を体験した叔父の心に残された傷跡は深く、その多くは生涯癒えることはありませんでした。
 開戦直前にブラジルへ戻ってからオジーは、サントス市で商業に従事して、ある程度の成功を収め、バナナの貯蔵庫を経営し、トラック2台、荷車2台を所有し、これらは輸送に使用され、サントス市郊外での野菜の行商にも使用されていました。当時のオジーの家族は娘3人、マリアきみ子、イラセマみえ子、アメーリアちえ子、息子2人、マリオとジョンで、1歳から9歳の子供に恵まれていました。
 そしてオジーの最初の結婚で生まれた私の母は既に結婚していました。

24時間以内強制退去命令――その日の苦悩と恐怖

サントス駅に強制的に集められた人々

 1943年7月8日、サントス沿岸一帯に在住の全ての日本人・ドイツ人移民は24時間以内に退去を強制されました。サントス市に住んでいた私の家族もこの被害を受けました。この強制退去の24時間、そしてその後サンパウロ市へ向かってそれぞれが未来への不安を抱えながら暮らした日々の大変な苦悩や恐怖は、それを体験した人にしか分からないと思います。
 叔母アメーリアによれば、兵隊が家に来た時、何かがおかしいと幼子ながらに感じたそうです。ブラジル兵は居間に入り、蓄音機があることに感心して眺めているうちに叔母の母、即ち私のオバー宮城ウシがオジーの荷物の中に日本兵であった頃の制服があることを思い出し、素早くかまどで使う薪の中に隠したことに気付きました。突然のことでしたが、その時のオバーの機転には感心します。
 その頃の政府はドイツ人、イタリア人と同様に日本人に対しても敵国のスパイ扱いをしていたため、幸いにもこのオバーの重要な行動により、オジーが逮捕される等、家族にとってより大きな被害が免れました。
 その時、私の両親玉城松一・トミは既に結婚していて、母は妊娠7カ月でした。父はトラックの運転手として祖父の会社で働き、母は野菜売りの行商をしていました。
 それぞれが荷物を纏めましたが、小さい子供もいましたので手で持てるだけの最小限の荷物しか持参することができませんでした。多くの人々に紛れて汽車を待たなければいけなかった母は怯え、恐怖にかられていたそうですが、まさしくその通りだったと思います。
 本当に最悪の状態で、多くの行き違いもありました。しかしながら、一方で涙と感動の再開もありました。両親は駅で宮城太郎・ウサ夫妻との再会を果たし、母は涙をこらえきれずに泣き出しました。駅にいる日本人はずっと監視されており、日本語で会話もできなかったため、泣いている母に一人の警察官が注目し、何が起きているのか確かめに来ました。
 太郎オジーは、「私の娘です。これでやっと家族揃って旅を続けられます!」と答えたそうです。父が単身でブラジルへ渡った頃、宮城夫妻は父を、そして後に母を実の子供のように接して下さり、また私たちを孫のようにかわいがって下さいました。そして私たちにとっても宮城夫妻はずっと実のオジー、オバーのような存在でした。
 母が繰り返し話してくれたのは、汽車を待っている間、妊娠7カ月の母は胎児に負担がかかるのを恐れてずっと駅にあったテーブルの下に横たわっていたということです。その一年前に母は長女の死産を経験していました。
 オジー宮城喜孝一家、私の両親、そして宮城太郎オジー・ウサオバー一家はまずは一緒に移民収容所に収容されました。人が多く、ベッドの数が足りなかったため、狭い床の上で何とかしながら寝起きする日々でした。
 サントスを出てから屈辱と極貧の日々をおくりました。何も知らない小さい子供たちだけが他の多くの子供たちと遊ぶことができるので喜んでいたようでした。
 叔母イラセマとアメーリアの話によれば、親たちは男の子たちの相撲大会を企画し、そして夜になれば決まって三線の音色が聞こえ、「モヤグァー」(琉球の踊り)を踊ることもあったそうです。三線は悲しい時も、嬉しい時も、その時の気分を表現するための相棒であり、私たちウチナーンチュのシンボルです。
 この場合はより良い未来へ向けて力と勇気を与えてくれる役割を果たしました。

サンパウロ州奥地パラグァスー・パウリスタへ

私の祖父母と子供たち

 移民収容所を後にしてからは、サンパウロ市バロン・デ・ヅプラット通りのペンション仲村渠に数日間滞在しました。その後、喜孝オジー一家と私の両親はオジーのお姉さん、津波オバーがカンポ・リンポ区(カンタレイラ)に小農園を持ち、野菜栽培兼養鶏業に従事していましたので、そこを訪ねて数日間泊めてもらいました。
 当時サンパウロ市内では住居の賃借は難しく、多くの家主は子供がいない家族を好み、当時5人の子供がいた喜孝オジーは諦めて家族を連れて聖州奥地パラグアス・パウリスタ市へ向かいました。叔母たちの記憶によれば、そこに着いてからはものすごく古く、穴だらけのあばら家に住んでいたそうです。
 サントスの家はとても広く、叔母たちの記憶によれば街角の大きな家で大きな商業施設があり、奥地の新しい現実とはあまりにもかけ離れていました。
 月日が経ち祖父は、知り合いのブラジル兵(指揮官)に頼んでサントス市に残した家財道具を市価よりずっと安い値段で売り捌いてもらい、そのお金で理髪店兼八百屋を兼ねたバール(軽食店)を開店しました。私の父は青果物を汽車で配送する仕事をしました。
 その頃、子供たちの最年長だった叔母マリアは、当時10〜11歳で野菜を売り歩いていました。パラグアス・パウリスタ市には2、3年いましたが、その期間にもう一人の娘アリッセ、そして息子ジョアキンが生まれ、家族が増えました。
 叔母イラセマによれば、日本が戦争に負けた後の「勝ち・負け」抗争の頃のあの臣道連盟事件でパラグアス・パウリスタ市でも多くの日本人が逮捕されましたが、オジーは警察署長(後にこの方は叔父ジョアキンの洗礼代父になりました)と知り合いだったため、拘束された日本人に食料品や煙草の差し入れをしていました。

再びサントス市へ、そしてサンパウロ市へ――オジーたちの生活再建の苦闘

私の父母と5人の兄弟姉妹たち 右から2番目が私

 日本が戦争に負けた翌年の1946年にオジーの家族は、再びサントス市へ戻り、市営市場で八百屋に勤め、その後サントス市営市場の通りにバール(軽食店)兼ペンションを開きました。一階のバールでは食事ができるようになっていましたし、またサントス市からジュキアー市を結ぶ鉄道沿いの町から来る人たちはペンションに宿泊しました。
 1947年にもう一人の息子ルイス・カルロスが生まれ、5男5女の10人の子宝に恵まれました。
 その後、祖父の家族はサンパウロ市へ移転し、サンパウロ市営市場付近のメルク―リオ大通りにそば屋を開店しました。その後、カルロス・デ・ソウザ・ナザレ通りに移り、最後にバロン・ヅプラット通りとヴィンテ・エ・シンコ・デ・マルソ通りを繋ぐ通りに開店しました。
 オジーは常にウチナーンチュ社会に積極的に参加し、三線を弾いたり、踊ったりするのがとても好きでした。私たちに踊りを教えようとしましたが、唯一三線を覚えたのは弟ジョゼ・カルロスであり、彼は9歳の時に当時の他の男の子たちと演奏し、その中には現在は教師として活躍している幸地朝市先生もいました。サンパウロ市立劇場で行われた沖縄県人移民50周年記念式典で三線の演奏を行う機会があり、その際に私はピアノの伴奏をしました。
 私が沖縄協会でピアノを弾きながら沖縄の民謡を歌うのを見てオジーはいつも感動していました。サンパウロ市内ではイピランガ区、ヴィラ・ベーラ区に住んだ後、サンカエタノ・ド・スル市へ移転して八百屋を開店しましたが、そば屋は長年続けました。そしてサンパウロ市ヴィラ・アウピーナ区で生涯を終えました。
 オジーの他界は、私たち家族の心を深く動かす出来事でした。最初に脳卒中を患い2年間寝たきりになっていたオバーが1月19日に59歳で亡くなりました。妻を亡くしたショックから立ち直れず当時64歳だった祖父は、祖母が亡くなって1カ月も経たない2月17日に後を追うように帰らぬ人となりました。

両親のウチナーンチュのチムグクル

祖父宮城喜孝と父玉城松一が三線を奏ている

 私の両親と家族は、ずっとサンパウロ市に残り、最初はパジェー通りに住んでいました。
 両親は借りた一室に友人の新城源一郎・千代子夫妻、そしてお二人の生後6カ月の息子エリオたかし君と同居していました。新城夫妻はサントス以来の友人でした。その一室はトルコ系の家族から借りていました。
 台所を使用する時間が決まっていましたので、調理をして部屋で食べ、来客も禁止されていました。衛生に厳しく、清潔な環境だったようです。
 サントスを去る時に母が駅のホームのテーブルの下に横たわってまで守ったお腹の子、兄のネルソン・のぶひこは、悲惨で異様なサントス強制退去事件から2カ月後の9月に生まれました。
 父はサンパウロ市営市場の周辺で、サントスでも行っていた業務、運転手としての仕事につきました。その後、自分のトラックを購入し運送業を始めました。
 両親がパジェー通りに住んでいた頃に姉のネウザも生まれました。その後イピランガ区へ移転し、そこで私と弟のジョゼ・カルロスとウィルソンが生まれました。イピランガ区に引っ越した時には二階建ての広い庭付きの大きな一軒家でしたから、父は親しい友人の家族を一緒に連れて住まわせました。
 新城源一郎、仲宗根、喜納の3家が同居しました。今思い起こしますと、両親は相互扶助の「ユイマール」の精神、そして「イチャリバチョーデー」のチムグクル(思いやり)で、困った人や家族を見るとわが家に受け入れて再出発の目処が立つまで面倒をみていたことが脳裏によみがえります。
 その多くの方々は未だに家族同然に思っています(チョーデー)。父はカンタレイラ区の市営市場周辺に多くの友人がいましたが、皆マンション暮らしでしたので、結婚式、トゥシビーなど何かお祝いの行事を行う際には、わが家の庭で焼き肉の準備などが行われていました。
 オーク材の樽のような容器で下味をつけてパン屋さんのオーブンで焼いてもらいました。母も多くの親戚や友人の結婚式のお手伝いをし、皆がわが家に集まって夜通し寿司を巻いていました。
 私の末の弟が4歳になった頃、両親は八百屋を開店しましたので、母が八百屋を切り盛りし、父はトラック輸送業を続けました。しばらく経ってから母と長男のネルソンはフェイラ(青空市)で働き始め、その後父も加わり、フェイラでトマトを販売しました。
 両親は常にウチナーンチュ社会に積極的に参加し、沖縄県人会イピランガ支部の設立に参加して本部の活動にも積極的に加わりました。
 二人はイピランガ区で生涯を終えました。父は1980年に69歳で、母は2015年に95歳で亡くなりました。
 大人になってから、両親は私たちになぜ日本語を教えてくれなかったのかを問い質し、もしかして両親が私たちに教えてくれるほど日本語を知らなかったのではないかと思ったりもしました。
 しかし今となって当時の状況が分かるようになり、終戦後に州都に住んでいて「ガイジン」に囲まれて暮らしていれば確かに日本語もウチナーグチも話すわけにはいきませんでした。私が覚えているのは、オジーやオバーをそのように呼んでいなかったことです。
 私たちは両親からオジーのことを「ヴォヴォ(ポルトガル語でおじいちゃん)」と呼ぶように教えられ、「ヴォヴォ・オーメン(男オジーちゃん)」、「ヴォヴォ・ムリェール(女オバーちゃん)」と呼ぶことになりました。
 この文章の中でも、私は時にはオジー、そして時には祖父と書いていることに読者の方々はお気づきのことと思います。家の中ではウチナーグチを交えた、簡単なポルトガル語での会話でした。

私の願い――あのような悲惨な事件を2度と起こしてはならない

 私の家族が体験したあの不穏な期間を振り返りますと、私自身はそれを実際に体験していなくても、幼い頃近所で「ジャポネス、カラブレス、オ ヂアボ ケ テ フェス(日本人、カラブリア人、悪魔の子供)」、「ジャポネス ガランチド(保証付きの日本人)」等と差別的な言葉を投げつけられてバカにされ、子供心に感じた悲しい記憶が蘇ってきます。
 日本人、ウチナーンチュはどん底から這い上がって精神を高く保ち、自分の中にある底力と勇気を振り絞って明るい未来を信じて頑張ってきました。
 私が一番願うことは、このように24時間のうちに行われた強制退去のような悲惨で醜悪な事件がもう二度と起こらないことです。調和、希望、善意を糧に、誰もが平和な人生を送れることを心から願います。
(※本稿はブラジル沖縄県人移民研究塾同人誌『群星』6―7合併号から許可を得て転載)