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特別寄稿=苦難の中の先人の教え=サンパウロ市ビラ・カロン区 高安宏治(たかやすひろはる)=ボリビアから伯国への再移住の教訓=《下》

 過去を振り返り、今考えると、昼も夜も残酷なほど働き通しであった。当時の縫製下請けの人々、とりわけボリビアから再移住の人々は、徹夜してまで家族ぐるみで働き、互いに競争して収益を稼いだ。
 心労もあったけれど、それでもボリビアで照りつける太陽の下での畑仕事と比べると、家の中で家族揃って朝、昼、晩一緒に食事を共にしながら座って労働する仕事は、最高に喜ばしいことだった。
 蛇口を捻れば、清い水がいくらでも出るし、また電燈の下で蚊の大群にも邪魔されずに懸命に働くことができる喜び、そして同じウチナーチュたちが、相互に助け合いながら、競争して働く充実感に溢れていた。
 ボリビアでは、11年間実を結ぶことのできなかった苦労に比べると、再移住して働けば働くほど労働の結果が稔り、生活の基盤を築くことができることは、再移住してそこにしかない喜びを心底実感することができたのである。
 しかし、今、過去を振り返って見ると、ボリビア移民地時代の悪戦苦闘があったからこそ、今日の自分があるとつくづく思う。
 幼年〜青年時代に移民当初の移民小屋建設をめぐる大人たちの共同の労働。その中にあって、アッという間に形が作られ、モータクーの屋根が葺かれ家々が作られていく労働の喜びに浸っていた少年期の僕、大洪水の困難の中を相互に助け合い、新たなコロニアを建設していく苦労の中の喜び、父母や大人の先輩たちに交じり働きながら教え育まれたユイマール精神と忍耐力。
 まさに原始林開拓の中の実地と体験を通じて身についたもの、大学で学んだわけではないが共同労働の働く現場の苦労がバネとなり、忍耐力と団結心がひとりでに身につき、同時にどんな困難も厭わず明るく、ひたすら働き続ける母の姿に励まされ、「どんな困難にも挫けることなく立ち向かう逞しい自立精神」が少年期の僕の胸中に鍛えあげられたのだ。それが潜在意識となり、まさに『無形の共有財産』となり、僕の胸の中に生きているのだと思うのである。

F 団結精神――ユイマール

ビラ・カロン支部創立50周年祭典で祝賀あいさつをする高安宏治支部長

 さて、僕がビラ・カロン地区に再移住したのは1970年8月であった。沖縄県人会ビラ・カロン支部(AOVC)の会館敷地購入をめぐる上江田幸次郎先輩らの高潔無私の志のことは、当時の僕は何も知らなかったけれど、最初の会館建設に当って、支部会員家族から1人ずつ交替で弁当持参、朝早くから夜遅くまで日曜日も毎日20〜30人の総動員で会館建設がなされた事を聞いて深く感動していた。
 その僕の感動は、おそらくボリビア少年時代に学んだユイマールのことがひとりでに蘇り、わが心を動かしたのだと思う。
 以後僕は、縫製下請けの家業をボリビア再移住の仲間たちと相互に助け合い競争しながら事業発展に力を注ぐ傍ら、沖縄県人会ビラ・カロン支部の様々な活動に参加し、同時にボリビア親睦会の結成、そしてその活動に積極的に参加していく。
 2002年にビラ・カロン支部の会長に成り手がなく、創立以来最大の危機に直面した時のことである。ビラ・カロン婦人会が立ち上がり、上原武夫氏を訪ねて、「もう一度会長となって会の存亡を救って下さい」と懇願した。
 熟慮の上に上原氏は1年間と限定し、「高安宏治が副会長を引き受けてくれるならやりましょう」ということになり、私は「上原武夫さんのご指名なら頑張ります」と婦人会の皆さんに応えた。婦人会の皆さんのあの時の喜びの表情は、今も私の胸に熱く焼きついている。
 以来私は、知花良治会長の下で1期2年副会長となり、ビラ・カロンおきなわ祭りの初代実行委員長を務めることとなった。そして2005年に第24代ビラ・カロン沖縄県人会長に就任し、創立50周年記念祭典実行委員長を務めることとなった。実行委員会の組織化に当たって僕は、相談役会の先輩の皆さん、縫製業をはじめ同輩の仲間たち、婦人会、青年層、いわゆる老・壮・青の力の結集をめざした。
 そして、その結集の絆こそ先人から学んだ《ゆいまーるの心》であることを肝に銘じた。じっさい、50周年記念祭典は、同輩の壮年層や二世・三世の指導層を軸に青少年に至る若者たちが一体となり、それをかりゆし老人クラブや婦人会が包み込むような協力体制で準備が進め、盛大に挙行された。
 やはり何事も成し遂げるには、《ウチナーンチュの宝物・ゆいまーる精神》、いわゆる「協同・共栄」のウチナーンチュの心を基本において活動することこそが大切であることを僕は改めて学んだ。
 現在のわがビラ・カロン沖縄県人会の発展の根底には、このユイマール精神が生きづいて大いに貢献していることについて、誇りをもって語ることができる。
 今日650名近い会員を擁している沖縄県人会ビラ・カロン支部は、ブラジル沖縄県人会傘下40支部の中で最も大きな支部である。あらゆる面においてその影響力は大きなものがある。
 本部の会長、役員理事、専門部役員などで活躍する支部出身の指導者たち、2千余の観衆で毎年賑う《家族慰安大運動会》、3万余の人々が参加して沖縄の芸能文化と食文化で終日楽しみ、地域に大きく根ざしている《おきなわ祭》、ウチナーンチュのみならずサンパウロ近郊のゲートボール愛好家たちのメッカとなっている《カロン協友会のゲートボール会場》、琉球舞踊・古典音楽・琉球太鼓・古武道・カラオケなど沖縄芸能文化の《宝庫》となっているビラ・カロン沖縄会館、あらゆる分野で多岐にわたって活躍する沖縄県人会ビラ・カロン支部の活動は、誰もが高く評価していることは、承知の事実であろう。

G 頼母子講――相互扶助

頼母子講の仲間たち

 頼母子講の果たした役割もまた大きい。縫製下請け業、1〜2年過ぎると技術面も段々と手捌きが速くなり、毎週の手取り金も増えて、「住宅購入資金」として頼母子講に賭けていた。
 カロン地域での頼母子講は、すでに戦前あるいは戦後初期移民の先輩たちが始めていた。再移住者が加入するには2名の保証人が必要で、定款で厳しく義務付けられていた。
 頼母子を落札しても保証人がサインしない限りは金を受け取る事はできなかった。ビラ・カロン地域は、ウチナーンチュとは言え、至る所からの寄り集まりなので、お互いに信用度も未だ浅く、確かな保証人がいないと信じて受け入れてくれなかった。それは発起人としては当然の事だと理解していた。
 そこで再移住者同士が結集して頼母子講を興し、お互いに保証の交換をしあい加入してく自分たちの頼母子講を創り出した。そして永くその地に居住し何の問題も無くスムーズに生活して行くうちに、先輩移民からの信用度も高まり、どこの頼母子講も仲間として受け入れてくれた。
 年数が経つに連れ、お互いに頼母子を将来の事業資金として積み立てていた。毎週日曜日になると、多いときには6〜7カ所に配り届けていた。
 だが、インフレが狂乱化し始めると、頼母子を下ろし財産として土地、建物、経済的価値の高い物件に投資していた。将来子供たちが結婚して独立すると働き手が少なくなるし、何時迄も下請け業を続けていられないと悟り、誰もが将来は何かの事業を興す事を望み、志を高め奮い立たせていた。
 お互いに何事においても融通し、助け合っていた。また少しでも多く収益を上げるために他人よりも長く働いていたし、「一日も早く人並みの生活を送りたい、ボリビアで苦労して遅れた分を取り戻したい」という向上心があったからだ。再移住者たちは、前向きに熱意に燃えていた。

ビラ・カロン支部の事業家頼母子講

 知花良治支部長時代(2003〜2006年)に支部運営のための資金調達を試み、その件に関する具体的対処を求めるために特別なミーテイングを開くことになった。ある会員から「頼母子講のようなグールプを構成したらどうだろうか」、という案が提出された。
 いわゆる会員の中の友人同士の行動に移る案であった。その時に生まれたのが「AOVC事業主並び友人頼母子グループ」の月例会である。
 募金や懸賞に参加すること以上に毎月の会合は、実に団結心を深め、皆が集まると日々のことを話し合い、AOVCの活動や独自のビジネス情報を交換し合い、あるいは夕食を楽しみ、その月に生まれた参加者の誕生日を祝う場として参加者の一人一人がその日がやって来るのを楽しみに首を長くして待つようになったのである。
 支部の下で創設されたこの事業家頼母子講は、参加者たちから大いに喜ばれ、毎年継続され続けてきた。
 現在、メンバーは160名に拡大し、一般乗用車グループが5グループ、オートバイグループが3グループ、そして若者のグループが3組に編成されている。この頼母子講は、支部運営資金造成を補う重要な組織活動の1つであり、資金調達と様々な活動実現を確保することに繋がり、支部活動の活気も造り出している。
 事業家頼母子講を創設して15年経った今、顧みて言えることは、当初計画した規模をはるかに超えた新しい世代の事業家グループが誕生しており、改めて感慨を深くしている。毎月の月例会は、様々な分野の若い事業家たちで溢れ、情報の交換と相互の交流を通じて友情を深め、互いに助け合い、ウチナーンチュ子弟の固い絆で結び合っているのだ。

H 自営型職業・新たな発展の道を拓く

ビラ・カロン沖縄県人会執行部(2016年ー2017年度)

 ところで、50年代から70年代に至るクストウラ(縫製事業)やフエイランテ(市営朝市事業)への参入、さらに80年代に入ってブラジル社会を襲ったハイパーインフレの荒波の直撃を受け、かなりの家族が破産・倒産に追い込まれた。そして再起の機会をめざして、ビラ・カロン地域から多数の人々が日本へ出稼ぎに出向いて行った。
 だが他方において、このハイパーインフレの荒波を逆手にとって事業発展の絶好の機会として成長した事業部門も現れた。縫製、金物・建設、化粧品などの事業部門においては、商品を大量に購入し在庫にしてもなんら支障の無い商品の特有性を生かして、たとえば今日購入した商品を1カ月後に売れば、購入時の30%もうわのせして価格を設定し、その差額を収益とすることができる、いわゆる先をよむ商法に徹して事業を拡大した。
 彼らは日に日に物価が上昇するハイパーインフレ時代の波に乗って、クストゥラからコンフエクションへ、金物・建設関連事業の大規模な事業の拡大、化粧品のチェーン店拡大など急速な成長へと進み、自営型職業の新たな展開の道を拓いた。
 同業者同士がウチナーンチュに固有な頼母子講を興して、相互に資金づくりで助け合い、種々の情報を交換しながら商品を共同で安価で購入していく《同業者共同組合組織》を作り、コストダウンを計って収益を確保していったのである。
 そして90年代のインフレが沈静化した後、いわゆるレアル・プランによる貿易自由化時代の波にもまれながら浮沈を重ね、様々な不利な条件に対抗しつつ収益をあげていく方法を模索し成果を集約していったのである。
 さて、私は「先賢に学んで自分を練る」という安岡正篤の姿勢に教えられた。「人間学祖」、と呼ばれる人間論である。
 人間というのは生まれてから35歳までを学ぶ人生。35歳から65歳までは学んだものを生かしていく。そして65歳から百歳までは社会にお返しする人生の時期だと言う。
 35歳までは一生懸命勉強する、それは全部頭の中に入る。それを過ぎたら限界があって、学んだものの応用しかできない。65歳まではその応用が生きる。それを過ぎたら今度は応用させて頂いたものを世間に感謝して、お返しをしなければいけない、と安岡は述べる。
 確かに一理ある人間の生き方だと思う。今僕は70代に入り、お世話になった社会にお返しをする人生の時期にある。そのことを自分に問いかけながら生きていこうと思う。

I 新しい世代への橋渡し

60周年式典で披露された、華やかな衣装の「女踊り」

 沖縄県人会は、これからは二世・三世ヘと世代交代していく新しい時代になっている。ビラ・カロン支部は、すでに世代交代が大きく進んで新しい世代に継承され、組織運営の在り方も先輩の教えと教訓を生かしながら着実に進められている。
 私は、子供移民として、いわゆる準二世といわれる世代の一人として、一世移民と新しい世代の橋渡し的な役割を担っているようにも思うのだ。ビラ・カロン地域に住むウチナーンチュたちは、先人から受け継がれている相互に助け合うユイマール精神とイチャリバチョーデー(一尾会えば兄弟)の心意気で、相互に交流し合う日常的関係に恵まれている。
 先人・先輩たちから受け継いでいるウチナーンチュ社会の伝統的な良き雰囲気と言うか、目には見えない「心の絆」で結ばれている。こういう「社会的環境」こそ、人を育てるには大切な場所だと強く実感している。
 また、現在では大学、専門学校などの高等教育を受けた子弟たちによる医者・歯科医、専門技術を生かした各種技師や教師、公務員などの事務労働者、弁護士・会計士などの専門職といった多岐にわたる職業が80年代初めごろから社会のニーズに応えて次々と生まれて、それに応えるように若い世代が登場して現在に至っている。
 先人たちが伝え残してくれたウチナーンチュの心の『宝物』――この『無形の共有財産』を結束の絆として各業界の新しい世代のウチナーンチュ事業家たちが家業を成功に導いているし、その彼らが沖縄県人会ビラ・カロン支部の指導者となって、会員と一体となって活動している。そこにビラ・カロン支部の力強さがある。
 このウチナーンチュに特有な連帯と相互扶助の精神なくして今日の安定はありえなかったと思う。この伝統的精神を社会生活における「良き伝統」として創造的に受け継いでいることこそ、ウチナーンチュの最も優れているところであり、強さになっていると思うのである。
 僕は、このウチナーンチュの伝統的精神が、同時に国際的な普遍的価値を有していると確信するし、ブラジルに生まれ次代を担う人々にこれを伝承し続けることの大切さも痛感している。ブラジルに再移住して3つ目の国を生きている僕の「社会へのお返し」の1つの仕事は、このウチナーンチュの優れた精神を次世代の人々に今後とも伝承し続けていく「架け橋」となること、これを着実に実践していこうと心に決めている。

琉歌
浮世難安しく渡い欲しゃあらば
 誠ゆい他に道や踏むな
     島袋親雲上
(【意味】浮世を安らかにわたりたいならば、何事も誠実にして、ごまかしや偽り欺くことのないようにすることが大切である)

(終わり、※本稿はブラジル沖縄県人移民研究塾同人誌『群星』6―7合併号から転載。同号は編集部で絶賛有料配布中)