山形県初の外国出身議員エジプト育ちのスルタン氏=「全国に暮らす外国人を助ける」《中》

議会で初質問した日のスルタン氏(山形のテレビ番組より)

議会で初質問した日のスルタン氏(山形のテレビ番組より)

外国人差別を受けても前向きに

 スルタン氏が2002年に2度目の来日をしたのは、筑波大学大学院人間総合科学研究科で博士号を取得するためだった。自費留学で、日本語を学びながら研究を行い、論文も書いたが、将来が見えず1年で大学院を後にした。その後、山形県に戻り、アラブ料理店を開いたり、車の部品工場や興味を持った米作りを農家で学びながら働いたり、さまざまな職を転々とした。
 「97歳の女性に、『スルタンさんは体が大きいから手伝って』と言われて一緒に米を脱穀し、その後に食べたケーキのおいしさとおばあさんの笑顔が私の喜びで」と頬を緩める。
 エジプトでは修士号を取得し、水泳のコーチだけでなく、陸上のオリンピックやパラリンピックのコーチの資格も取得していた。東京や他の町で求人のあった水泳指導員の面接も何度か受けた。だが「外国人だから採用できません」と、書類上の不備はないにもかかわらず「外国人」が理由でいくつも採用を断られた。
 しかし、スルタン氏はどんな時でも心を強く持ち、今日まで中古車販売の仕事も手掛け、議員に当選してからは政治活動も忙しくなっている。

議員の一声で医師の待遇が変化

 「アラブ人は助け合わなければなりません」。スルタン氏が議員に当選した後、京都にいるアラブ人から一本の電話があった。内容は、病院に行って医師の診察室まで通されたのに、日本語を話せないという理由で、医師に追い返されたというもの。スルタン氏はすぐにその病院に抗議の電話をかけた。
 「体調が悪くて困っている人が目の前にいて、言葉が分からないという理由で追い返すのは正しくない」と言うと、病院は謝罪し、翌日にはアラビア語の通訳が来て診察を受けられ、薬も処方された。
 「私は外国出身の議員として、山形だけでなく、全国に暮らす外国人を助けるべきだと思っています」。スルタン氏の人助けは外国人に対してだけでなく、庄内町の人が雪で転倒しているのを見たら、すぐに手を差し伸べるような小さなことから始まる。アラブ社会ではごく普通のことを、日本でも実践している。

山形県鶴岡市の小学校で講演した時のスルタン氏

山形県鶴岡市の小学校で講演した時のスルタン氏

日本の外国人受け入れと共生への課題

 日本の外国人の受け入れや共生への課題についてスルタン氏は、米国で暮らしてきた日本人などとも話し合い、様々な解決案を持っている。その大きな柱は「仕事を与えたら終わりではなく、日本の生活に慣れるまで面倒を見る」ということ。
 外国人労働者が日本で働き始めた場合、社内でコミュニケーションができるようにサポートしなければ、その会社にとっては経済的にもマイナスになる。職場だけでなく、外国人労働者の日本語や書類手続きのサポート、住居を会社の近くに用意するなど、生活全般の面倒を見ることで、会社も収益を上げられる。最初から日本人と同じ仕事ができることを求めることは、コミュニケーションの面からいっても難しい。
 会社と外国人労働者をうまく結びつける解決策として、スルタン氏が考えるのは、専門家が外国人の扱い方の講習会を開き、会社の上層部に最初に講義して、その後、社内で他の社員にも外国人との関わり方を指導するというもの。社内のコミュニケーションを円滑にする重要性を説く。
 外国人労働者を数年間で使い捨てにしたり、日本人との賃金格差を大きくしたり、日本人がやらない仕事ばかりを提供するのではなく、日本で覚えたことを母国で活かしてもらうような前向きな雇用の機会を提供することを提案。
 最初の職場が合わなかった場合は、別の会社を探す機会を与えることで、逃亡や欠勤などのリスクも小さくできる。(大浦智子記者、続く)

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