繁田一家の残党=ハナブサ アキラ=(6)

 なんでも、子供の頃に蛍狩りで蛍の居ない方に向かって走るので、親が眼の悪いことに気付き、小さい頃から眼鏡をかけるようになったとか。厚いレンズのせいで、目つきが悪く見えるのだが、素顔は実に人のいいおっさん顔。
 指宿温泉の混浴で、団体の女子高校生から「助平のおっさんが、めがねかけて風呂に入ってる」といわれたが、眼鏡なしでは歩けないほど視力が弱いそうな。
 おやじの、どてっぱらには銃弾の貫通傷があり、それも後ろから前に抜けたらしく、山下さんは「繁、おまえ敵前で逃げたやろ」と揶揄ってた。
 そやけどおやじは寮で「そりゃ怖いわい、突撃なんか、でけるかい」あっけらかんとして「又も負けたか8連隊、さあ飲も飲も」と、酒をあおってた。確かにおやじの言うように、大阪の第8連隊は逃げ足が速かったらしい。
 ワイも大阪野郎やけど、大阪の人間は銭儲けやと目を皿の様にして励むけど、天皇陛下万歳と叫んで喜んで死ぬやつはおらん。
 その頃には既に、ブラジル移住を決意していたワイは、コネを探して平戸の山鹿市長を訪ね、サンパウロの城島商会の城島慶次郎氏宛てに紹介状を書いてもらったり、平戸沖合いの福島に住むブラジル最初の日本人の子孫に面談の機会を与えてもらったりもした。
 佐賀県の教師あがりの城島氏は、松下電器のテープレコーダーを移民に担がせて密輸入した松下のブラジル進出の尖兵。
 ワイはブラジルに渡ってから、サンパウロ郊外の高級住宅地にある広大な城島邸にある日本庭園の亭で昼食をご馳走になった。
 少し待たされたが、亭には毎日新聞があったので久しぶりに読む日本の新聞は懐かしく、もっと読んでいたかった。
 危険を伴う密貿易から始めることにより貢献した同氏の功績が天下の松下の海外発展の基盤を築いた。
 一方、日清戦争の終結により炭鉱事業が破綻し、シベリア鉄道を乗り継ぎ、リバプールを経てリオに着いた山縣勇三郎を、ブラジル政府は明治の元勲・山縣有朋と勘違いし大歓待した。
 大・山縣に勝るとも劣らぬ勇三郎は、リオの対岸ニテロイで製塩事業に成功し、建設業、造船業で財を成した。
 同氏の長男は、長崎県にある生まれ故郷の小さな島で、ブラジルに住む異母弟達からの仕送りを受け、ひっそりと暮らしていた。
 父親譲りのものがあるのでブラジルの異母弟達に持って行ってくれと、父勇三郎が移住決意を揮毫した掛け軸を託された。
 リオ・デ・ジャネイロ州の州庁の所在地・ニテロイにはヤマガタ・エンジェニャリアと云う新潟鉄工との合弁会社があり、ワイはその会社から採用内定の通知を移住事業団を通じて受け取ったが、出発直前に取り消された。取消理由も知らされず、会社からは退職金も既に貰った後で送別会も予定されており、ワイは移住事業団の計らいで暁旅行社を通じ、架空の呼び寄せ先に就職移住することになった。
 それはさて置き、もっとおもろい寮に居た頃のおやじの昔話を、もう少し。
 脇坂淡路の守の典医として代々続く医者の倅として生まれた繁田のおやじは、勉強が嫌いで尋常小学校卒業直後に家出し、神戸の料理屋で追廻をしながら、板前になる機会を狙っていたという。連れ戻されて早稲田を出た後、アメリカに行こうか大陸に渡ろか迷たが、当時、日本の植民地で日本語の通じる朝鮮に行くことにした。